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ミルプラトー第四プラトー読書会で語用論の系譜を検討したので、痛感するが、ボワやフリードは語用論や日常言語哲学の語彙で思考してるところがあるんだろうな。

90年代までは廃墟は審美的対象でありのどかな衰退でありえたが、10年代以降の廃墟は単に生活の現実であったり汚部屋の延長であったりする。

あとは地球のイメージもよくあった(『僕の地球を守って』『寄生獣』)。リングはAIDSとウィルス進化論のモチーフからの改造だろうとか。

ポストブレラン狙いの試行錯誤は、だいたいマトリックスで一区切りがつく。

当時は廃墟や人工空間(郊外イメージ含む)は、「普及以前・想像上のインターネット」イメージを兼ねているのも重要。
80-90年代はとにかくブレランから派生していろんなインターネットイメージが競われた。映画版攻殻の看板だらけ香港イメージとかもその一つ。

廃墟ネタは、80年代にはブレラン、90年代には九龍城写真集ヒットがあるよ。

天重さんの指摘で「日本では植民地主義への批判としてではなく、白人中心主義への批判として、ロジックをすり替えられる」というのがあったけど、私が、作品を「白人酋長もの」と纏めて済ますネット慣習に苛立っていたのは同じような視点からだったなあ、と思い出した。

植民地主義の罪ではなく、アメリカ人を腐す身振りに逸れてしまい、日本にある植民地主義的欲望をあっという間に消す手口になる。

twitter.com/ttt_cellule/status

今日まで無料で読めるらしい。

井上まい『大丈夫倶楽部』
manga-5.com/series/13

『緑の歌』の高妍が書いてるし、コミックビーム、さりげにハルタよりつええなという認識に。comicbeam.com/magazine/new-mag

「勝手に学ぶ」でやってきた人には、2周目課題がある。

それは、「他人にアサインできない」(note記事著者の直面したもの)、「自分の学び方と出力の仕方を自分で吟味し直さないとスパゲティコード化する」、「出力と学びのサイクルを仕切り直して、期待/学習を自分で一人二役する必要が出てくる」などがある

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それほど詳しく知ってるわけではないが、映画製作はたぶん集団的プロジェクト側の人材で動かしていて、「期待されて学ぶ人」で育った人を、ブリコラージュ的にとりまとめてチーム結成、合意形成していくものなんだと思う。

一般的に監督神話言説は文学的な「著者」に作家を擬するものだから、監督の采配でソロ活動っぽく認識をまとめるんだが、実態はそれとはいろいろ齟齬があるんだろう。

「こども映画教室」がいろんな可能性を秘めつつありうるのは、人と人のあいだの期待や声掛け、適性を探る過程で、新たなる分業とコミュニケーションを開くからで、それが学校とは別の回路になるからだ、とかそんなところかな。

檜垣の言いたいことはこの記事における左のモデル、「勝手に学ぶ人」にように隣接範囲を自主判断でやっていかないと生き延びられないし、実際に失敗した人たくさん見てきたよ、というものだろうなと人と話してた。
(このnote記事は、記事作成者がむしろ集団的プロジェクトでは後者の期待回路の方をなんとか伸ばすしかない、と考えている逆説性が面白い)

で、子育てしながら研究やりたい人は右のモデルでやらせてほしい、と不満があるので檜垣を敵視する。でもアカデミックメリトクラシーの修羅ワールドでも文筆でも、そんな既定オーダーのスキルでなんとかなるわけではないから、そのスタイルだと途中で戦力外通告されて潰されるだろう。

なので長い目で見れば檜垣の方が残念ながら妥当だと思われる。

柴田史郎「「勝手に学ぶ人」と「期待されて学ぶ人」の差が埋められない」
note.com/4bata/n/nf8fbcb832e91

天重さんのトゥートを見て思うのは、彼が首を捻っている珍反応は、おそらく美術関係者の「知的」な限界というよりは、美術行政・美術館運営・制度 と 美術史見直しの知 の間の架橋・実践の蓄積の乏しさの問題かなと思った。
後者の知が無いわけではない、だから関係者や美術批評家は妙に「すでに知っている」反応をしそうになる、しかし、それを実際に企画や制度的な取り組みの上で組み込んできたんですか、というところの知や認識で落差が出る。
そんなところかなと。

檜垣の「死ぬ気でやれ」発言が反発を呼んでいるようだが、ヒューマンな反発を呼ぶ意味で檜垣はマシかつ優しい部類だろうな。

永井均が同趣旨を言うと高確率で心酔されるから見かけ上は高潔だが実態はもっとクズという状況が生まれる。

世の中の大半の読書家は、小説愛好者であるか、人気批評家の文章読むのは好きといった層にとどまる。

これだと、批評理論を援用しているタイプの文章を読めなくなるし、噛み砕きやすくアダプトされた言説を無限に読み続けることになる。「専門書はちょっと」とか言いながら。
(そして世の大半の人は独習でそれらを突破するところまでは行けないので、「どの学部をでたか」がリテラシーに規定的にはたらく)

こうしたアダプト言説ばかりを読んでいると、日本の文芸秩序のドメスティック産業の中で棲む魚みたいになるんだよな。だが、それ以上のスキルをどう手に入れるか、というところで壁がある。

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