本を読んだ方が良いのかどうかは
図書館や書店や広告で歴史修正やヘイト、代替医療などが揃っているのを見ると、ちょっとためらう。
「読書」のための環境が整備されているのか、とか。健常者優位なのでは、とか。
『世界史とは何か 「歴史実践」のために』
https://www.iwanami.co.jp/book/b625953.html
(前略)“世界史はつねに「変化の激しい予測困難な時代」の連続であり、あえて現代を定義するならば、「人類が地球社会を未来に存続させることがより困難になっている時代」である現実のほうを見つめるべきだと思います。予測が困難なのではなく、生き続けていくことが困難なのです。私は、蓄積された学問を創造的に探究して、未来の困難に向かってどう生きるかを考えるような、新しい教育実践の挑戦を積み上げていきたいと考えています。
(「はじめに」より)”
→あまり、こちらが勢いよく攻めれば、彼等は、心を閉じてしまい、なにか見事な一語で、もはや議論の余地はないという。といっても、それは、彼等が、説き伏せられるのをこわがっているからではない。ただ、自分が、滑稽に見えるか、あるいは、自分の困惑が、味方に引き入れようとしている第三者に、まずい効果を与えることを恐れているにすぎないのである。/以上のように反ユダヤ主義が、理論も経験も撥ねつけるからといって、その信念が固いという証拠にはならない。むしろ、なにもかも撥ねつけることに決めてしまったから、信念が固くなったのである」(安堂信也訳『ユダヤ人』岩波新書、一九五六年、一八―一九頁)。
章末の註にあるサルトル『ユダヤ人』からの抜粋が印象的だった。
──「彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ『権利』があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどわせたりすることだからである。→
賢人と奴隷とバカ
01.現代日本の「反・反知性主義」?
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
「既得権益」とされるものへの憎悪、歴史的には「部落解放同盟」とか「在日特権」あたりからはじまって、そのたびごとに恣意的に敵を替えつつ現在にいたる感じか。
アテンションつーか火をつけて回るビジネスが成立してしまったので、それ専門のガベッジ野郎が次から次へと出てくる。
こうした〈叩かれてきたもの〉の歴史的変遷をたどったのが、能川元一さんとの共著『憎悪の広告』なんですよね。ターゲットとされたものへの攻撃の執拗さと定着度合い、その反面にあるターゲットの移ろいやすさも含めて、クソい右派論壇誌の広告から可視化していくという企画でした。
好感度ってめちゃくちゃ重要だし蔑ろにしたら絶対だめなポイントだし選挙って最後は好感度で左右するのかも……そういうもんかも……そうだよね………………とは思うけど、好感度ゲットしたらそれで勝てる、好感度をゲットするために全力を注げば勝てる、みたいなのにはやっぱり勝手に敗北感を覚えてしまう。敗北するほど運動できてないけど……。
徐京植「母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える」
https://note.com/k2y2manabe/n/nf03caaf03269
“翻訳という作業は、いうまでもなく、不偏不党の非政治的な行為ではありえない。そこにはかならず「解釈の権力」ともいうべき権力関係が反映している。マイノリティや被抑圧者による言語表現を、マジョリティや抑圧者の側にある者が翻訳し、流通させるときには、なおさらそうである。どの作品を選び、どう解釈し、どの訳語をあてるか、どのような形態で出版するか、そうしたことを決定する権力がマジョリティの手に握られている。その出版物はマジョリティからなる市場で販売され、マジョリティである読者たちの興味を引いたときにだけ買われ、解釈は読者たちに委ねられ、つまらないと思われれば簡単に投げ出されるのである。”
『反「暴君」の思想史』その3
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1320.html
“「御家の内部から主君の悪事が外部に漏れることを常朝は繰り返し警告している」。「これは見方によっては「忠誠」行動という名のもとに権力の腐敗堕落を糊塗する論理ではあるまいか」。
「このことを裏面からいえば、一般大衆は家臣たちの「忠誠」行動の結果、君主の実像を知ることが妨げられ、一般庶民をも含めた意味での政治社会全体にとっての利益は、以上のような君臣関係においては視野からまったく脱落してしまっている。「人のためになるべしとは、あらゆる人を主君のお役に立つ者に仕立て上げてゆくというふうに心得たらよろしい」と常朝が述べているように、利他的行為の目指すところはすべて「主君」に収斂するのであって、社会全体を視野に収めるものではない。/約言すれば、『葉隠』において「共通善」はまったく問題とならないことになる」。”
『反「暴君」の思想史』その3
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1320.html
“「名君に仕えることはたやすい」。「ところが君主が無知蒙昧であったり、暴虐極まりない場合にはどうなるか。「之を去る」べきか。そうではない。暗愚の君主の場合は「随分と考えをめぐらし思案をつくして、お国の政治をなさるようにしてあげなければならず、これはなかなか大変なこと」なのである。ここで「君君たらずとも、臣臣たらざるべから」ざることを想起されたい。君主がいかに邪悪、愚劣、怠慢、無能であろうとも、家臣はこれに忠誠を尽くさねばならない。というより、むしろ、君主が暴君であればあるほど、それにめげることなく、君主の逆鱗に触れることも恐れず「諫言」に務める家臣の忠誠業績はいっそう輝きを増すことになろう。忠誠行動が「君を真に正しい君にするための不断の執拗な働きかけ」であるかぎりは、誤解を恐れずあえて極言すれば、君主はむしろ暴君であったほうがよいことになる」。”
大勢がいる場所で誰かが『詰め寄られている』っていう図が『いじめられている劣勢の個人』に見えてしまう、そこに至った背景とかは特に大きく影響せず、場の空気感、雰囲気でそういう判官贔屓の心持ちが湧いて出てきてそれに従ってしまうというか……「かわいそう」という『擁護』の声にはそういう『情』を感じてしまう。
ちょっとテレビショーみも感じます。県政はもとより、同じ職場で働かざるを得ない生身の人間の明日がどうなるか、がかかっていることでもあると思うんだけど、「かわいそう」の印象で「私はこのキャラクターを応援する」へ一点突破できてしまう。他県からも「かわいそうな斎藤氏」個人を応援したいと思わせる。
こういうの、「兵庫県民の選択」としてまとめてしまっていいものでもないと思ってしまう……。
いや本当にね、声をあげたひとが馬鹿を見るような、声をあげたひとが「嘘を言っているかも」「大袈裟なのでは」と『一考』される環境が肯定されてしまうような、そういう土台が県庁……組織に成立してしまうわけだよな、と私は思ってしまうので、怖い以外の何物でもないです。斉藤さんかわいそう、というのって「加害者である権力構造のトップのひと、責められてかわいそう」という意味ですよね。
社会運動家や評論家は第一希望を必ず言え、と思う
私たちの思い描く未来を実現する最短ルートは、ゴールを高く設定し、第一希望を口に出すことにある。
瀬戸マサキ
2024.06.25
https://masakichitose.theletter.jp/posts/965f3020-32ce-11ef-879a-533179dcc134
木庭顕著 『クリティック再建のために』
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1568.html
「テクスト解釈に限定しても、様々なテクスト理論、ヘルメノイティクやナッラトロジーや脱構築やコンテクスチャリズムなどがどんどん流入する状況下、何一つ本当には咀嚼されていかない。それらが理解されないし、理解するための準備もない。まして的確に批判されない。それらがのっている分厚い基盤自体が理解されないからである。いつまでたっても積み上げができない。流れてきたものを表面的に右から左へ流すだけであり、自立した思考は育たない」。
“なおここは、『賢人と奴隷とバカ』における酒井隆史による魯迅と竹内好を参照した「優等生」批判とも重なる。近代日本を作り上げた「優等生」は、その時々で時流に合わせてするすると姿を変えていく。著者のような人が『賢人と奴隷とバカ』をどう読むのかはわからないが、少なくとも日本の官僚やジャーナリズムを含めた広い意味での知的世界の実状を表すものであろう。”
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