『反「暴君」の思想史』その3
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1320.html
“「名君に仕えることはたやすい」。「ところが君主が無知蒙昧であったり、暴虐極まりない場合にはどうなるか。「之を去る」べきか。そうではない。暗愚の君主の場合は「随分と考えをめぐらし思案をつくして、お国の政治をなさるようにしてあげなければならず、これはなかなか大変なこと」なのである。ここで「君君たらずとも、臣臣たらざるべから」ざることを想起されたい。君主がいかに邪悪、愚劣、怠慢、無能であろうとも、家臣はこれに忠誠を尽くさねばならない。というより、むしろ、君主が暴君であればあるほど、それにめげることなく、君主の逆鱗に触れることも恐れず「諫言」に務める家臣の忠誠業績はいっそう輝きを増すことになろう。忠誠行動が「君を真に正しい君にするための不断の執拗な働きかけ」であるかぎりは、誤解を恐れずあえて極言すれば、君主はむしろ暴君であったほうがよいことになる」。”
反「暴君」の思想史 132
将基面貴巳著
https://www.heibonsha.co.jp/book/b163079.html
『反「暴君」の思想史』その3
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“「御家の内部から主君の悪事が外部に漏れることを常朝は繰り返し警告している」。「これは見方によっては「忠誠」行動という名のもとに権力の腐敗堕落を糊塗する論理ではあるまいか」。
「このことを裏面からいえば、一般大衆は家臣たちの「忠誠」行動の結果、君主の実像を知ることが妨げられ、一般庶民をも含めた意味での政治社会全体にとっての利益は、以上のような君臣関係においては視野からまったく脱落してしまっている。「人のためになるべしとは、あらゆる人を主君のお役に立つ者に仕立て上げてゆくというふうに心得たらよろしい」と常朝が述べているように、利他的行為の目指すところはすべて「主君」に収斂するのであって、社会全体を視野に収めるものではない。/約言すれば、『葉隠』において「共通善」はまったく問題とならないことになる」。”