@akamujina 反省する必要なし!そういえば、最近行ってないので行きたくなりました(職場から最寄りのラーメン屋なので)。
ちょっと前Twitterで「軍艦島と言い、佐渡金山と言い、どうして日本政府は「激ヤバな労働をさせていた場所」を好き好んで世界遺産にしたがるのだろうか。過去の歴史を直視し、反省しているからかな(棒)。」と呟いてバズったが、リプライの中に「ピラミッドだって激ヤバな労働現場だったのでは?」みたいなのがあったが、人権という概念が存在して、奴隷とかも解放している近代においての激ヤバな労働現場と、古代のそれとを安直に比較して「上手いこと言った」と思っているのは、人類の進歩に対する冒瀆だから、やめようね。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240606-OYT1T50193/
「悪の凡庸さ」に関する議論で注意しなければいけないのは、「人間は変わる」ということだよな。凡庸な人間が邪悪なアジェンダを持つ構造の中でどこまで邪悪に変化するか、ということであって、終始凡庸な人間が歯車になればなんでもやる、ということではない。今の日本の官僚をみていても、トップが腐り切ったらあっというまに腐臭を放ち始めたのが現在進行系。「存在が意識を規定する」とはつまり、そのような恐ろしいことなのである。
朝日に掲載された映画「関心領域」を巡る田野さんのインタビューを読んで。プレゼントしてくれた方に感謝します。
告白すると、私はドイツから帰路のルフトハンザでこの映画を見始めたのだが、最初の10分ぐらいで寝てしまいました… 一見のどかな内容ではあるので、疲れていないときに見ないと駄目ですな。
津和野町 水道事業維持で料金40%値上げの方針
https://www3.nhk.or.jp/lnews/matsue/20240530/4030019059.html
4割値上げっていくらなんでも酷すぎる。水道だよ、ライフラインだよ。
人口減少で利益を維持できないというのは事実だろう。それはつまり、ライフラインは産業の論理でやってはいけないってこと。
学校の健康診断で子どもが服を脱がされる問題についてであるが、米国やドイツでは問題になることがない話である。なぜなら、学校で集団検診をすることがないから。
とはいえ、集団検診自体は、私は日本に残っている素晴らしいシステムの一つだと思っている。家庭の事情にかかわらず、健康状態を把握できるのは、たとえば貧困やネグレクトで医者に連れて行ってもらえない子どもにとっては、少なくとも家庭以外で医療へのアクセスが確保されることになる。セイフティネットのひとつだ。
一方で、集団検診は軍隊のようでもある。子どもの健康状態を公的システムが管理下に置く、ということでもある。バイオポリティクス。同時に、本来はプライベートであるべき情報がより多くの目にさらされることになる。「服を脱ぐ」ことの問題もそこにある。
懸念しているのはプライバシーを強調しすぎると、あっというまに子どもの健康状態も「自己責任」になりかねない、ということである。義務教育を無駄なコストと考える人々にとってのわたりに船、になってしまう。
最近、中村哲也さんの『体罰と日本野球』(岩波書店)を読んで、その内容から敷衍して宗教の現場におけるハラスメント問題についてちょっとしたエッセイを書きました。内容紹介で少し字数を稼ぎましたが・・・(笑)。やはり戦後の「軍隊帰り」の指導者って、影響が大きいですよね。近年ではいわゆる「雷親父」が戦場でのPTSDだったのでは、という研究も進んでいますが。
エッセイの最後にも書きましたが、大学教員だって、やはり「ハラスメント」に親和的な職業ですし、体が貧弱でも、実は「体育会的」なノリがありますよね。僕も例えば、深夜まで院生室の明かりがついていると「大変だなあ」と言うよりは「お、頑張っているな、感心感心」と思ってしまいますし、YouTubeの元プロ野球選手の番組を見て「昔は理不尽なしごきがあったものだなあ」とつい笑ってしまう自分がいます(特に僕は、桑田・清原から立浪たちを擁するPL学園が一番強かった頃が中高生ですので、彼らの話を面白がってしまうのです)。文字通り「自戒をこめて」書いたエッセイです。ご笑覧ください。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/jiji/20240517.html
ETV特集の「汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年」、録画を眺めた。名作。西山夫妻はすでに故人だが、妻がディレクターに残した日記を中心に、話は展開する。
密約スクープをものにした西山太吉であるが、「外務省の女性官僚を籠絡し密約の書類をゲットした記者」という男女関係のスキャンダルにすり替えられ、密約自体の問題はかすみ、西山は新聞社からおいやられて失意のうちに何十年も過ごす、という強烈な話である。ドキュメンタリーはそれを横で見続けた妻の西山啓子の日記から描き、なおかつ取材を通して長くそこに関わってきた女性のディレクター自身もドキュメンタリーの一部になっている。
この事件の本「密約」を書き、今や90を越えた澤地久枝のしごと部屋を、ディレクターが日記を携えて訪問するシーンがある。日記を手渡す一瞬、かっと見開かれる澤地の目の迫力が強烈。歴史を見据える目である。よくぞ撮ったり、と思った。
ETV特集ならでは。昨今、NHKは堕落したが、ETVにはジャーナリズムの気骨が残っている。
再放送は5月16日(木) 午前0:00〜午前1:00。
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/NR3N34M4Y7/
アメリカの報道メディアで、デモをしている学生達のことをいつもPro-Palestineと言ってそれが「antisemitism」の暗喩というか犬笛で、絶対にanti-war とか against genocide とか言わないのが気になって気になってしょうがない。インディペンデントメディアじゃないとPro-Palestine以外の言い方をしない、それほど強いバイアス。
これって、Pro-ChoiceのことをPro-abortionとワザと言って、イメージを植え付けるのと同じムーブで胸糞悪くなる。
暴力による選挙妨害とは、ナチスとまったく変わらない暴挙で決して許されるものではありませんが、この「つばさの党」に限らず、旧NHK党や参政党、日本保守党など、もはや日本の選挙は政治ゴロや陰謀論者、極右の巣窟となりつつある感があります。こうしてまともな人間が政治から離れていった結果、ますます政治不信が進むという悪循環をどのようにして止めるのか、それこそが今後の課題となるのでしょう。
※私はこの問題の対策として、「政党助成金と供託金の廃止」を提案します。政党助成金という利権があるから、国政選挙に政治ゴロが群がるわけで、それを廃止した上で、問題のある候補者の排除にはまったく役に立っていない供託金も廃止し、米国やフランスのように「住民による署名を一定数集める」制度に変更するのがいいと思います。
完全に個人の意見なんだけど、もうLINEて最初みたいなSNSじゃなくて実際に顔を合わせた人達の、特にグループトークに特化した連絡ツールの面が大きいと思ってて。
だからともだちになるわけでもない、グループトークに出てくるだけの、でも業務として関わる人がよくわかんない名前だとめちゃくちゃ困る。名前書き換えちゃってくださ~い!ってともだちにならないと(相手に通知がいく&承認が必要)名前書き換えられないからクソめんどいし、名前に個性出されても興味ないんで最初からわかりやすい名前にしてて欲しいです。
愛媛、高知、大分方面の地震、大阪市内の知人は何人か揺れを感じているようだ。京都市左京区は何も感じないが、やはり大きな地震の速報を聞くと「その辺りに原発は?」と思ってしまう(この場合伊方原発だが)。
敢えて大雑把な言い方するけど、「新期造山帯」に原発作っちゃいけないよな。「古期造山帯」でも、チェルノブイリみたいなことになったら終わりだが。もちろん、原発というシステムが日本において搾取の構造をとっていることも大きな問題なのだが。
また痛ましい事件が起きた。
自分の研究者人生をつらつら思い出すに、酷いアカハラ、パワハラにほとんど遭わずに済んだ、という僥倖をかみしめねばならない。出身研究室の先生方は皆さん良い方だったし、男女別なく「平等に就職口が少ない」分野だったので、それもあって和気藹々だったのだと思う。僕の元同僚(定年退職した女性教員)は、「私の時は、女は男の2倍の業績がないと推薦してもらえなかった」と恨み節を言っていたが、そういう人に限って、「私はもっと苦労しました」という姑根性でパワハラ、アカハラするんだよな(僕も被害者)。まさに負の連鎖。
もちろん、僕が男性であることで、差別や「壁」をそれほど意識せずに済んだ、というのもあると思う。周りを見ても、友人で指導教官と「相性」が合わず、院を辞めたり、他専攻に移ったりしたの、知っているからなあ。「ここでしか」という思い込みは危険だよな。逃げるのは恥ではない。
自分の勤務先の学生が、大学の「外」で器物破損、交通法規無視、未成年飲酒などの「不祥事」を起こしても、正直「知らんがな」と言いたいところ。だって、物理的にも「目の届かないところ」でおこなわれているんだし、大学生は参政権もある一応成人なわけだし。大学構内なら、それなりに責任は出てこざるを得ないとは思いますが(うちの大学も、過去にアル中死亡事故が起き、そのサークルは取り潰された)。
世の中には暇な奴らがいて、ネットで嫌がらせをする対象を見つけようとウロウロしている(いわゆるインターネットトロール)ので、大学が「過剰に防御的」になるのも判るんですけどね・・・。
例えば過去に、僕の某ゼミ生は「酔っ払ったまま自転車で帰宅したよ~(大意)」みたいな事を呟いて、それがトロールに見つかって「お前のところはどういう教育してるんだ!」と大学事務に嫌がらせの電話が来たことがあった。その時の事務の方が気を利かせて「はい、その学生の指導教員からきつく叱っておきますので、ご忠告ありがとうございました(棒)」と向こうが続けて何か言おうとしているのも無視して電話を切って、その後僕にこっそり「先生のところのゼミ生と思うんですが・・・」と教えてくれたことがあった。この程度の対応で十分すぎと思います。
先日の投稿の答え合わせのような記事が上がってきた。
令和の現在でも女子大は「女子は大学行っちゃダメ」と親から言われる子の解決策になってる側面がある - Togetter
https://togetter.com/li/2336907
女子大に勤める身としては、女性だから大学に行く必要はないと言われた経験については、「そうですが?」という返答以外ない。もっというと、地方短大に勤めていたときにはもっともっと耳にした。こういうジェンダー格差は見えない人にはまったく見えないものなので、素朴に「能力」とか言えてしまうのです。
女子大の意義は、私が強く感じているのは、直接的なジェンダーバイアスがほとんどない世界で(つまり男性に遠慮したり視線に気にすることなく)、のびのび学ぶ空間であるということ。あるゼミ長だった卒業生が、共学だったらリーダーなんて絶対しませんよ、男に任せますと述べていたことがずっと胸に刺さっています。その学生はかなりリベラルな学生ではあったけれど、ある種の自分を守るための「世間知」として発言したのだと思います。
まあそういうこと。幼少期から「勉強しなくていいよ」「リーダーなんてしなくていい」と言われ続けた人と、そうでない人を「能力の違い」なんて素朴に言えるとしたら、社会のことをもっと学んだ方がいいよとしか。
川瀬貴也。大学教員。宗教学者。専門は日韓近現代宗教史。宗教学、思想史、近代文化史、社会学の周辺をぐるぐるしているつもりです。発言は個人の見解であり、所属とは無関係です。