Xではネトウヨ的科学教信者にリベサヨとしてレッテル張りされて絡まれ、また別の場所では、強硬な反原発勢力に原子力ムラのフロント市民活動家扱いをされ…、というのが、長く続いている私の立ち位置なのですが、原子力関係は、「どちらでもない」人が入り込むとこういう扱いになるというのが、健全な議論を難しくする理由だと思います。
気候変動の関係から、これまでとは違う分野の方たちが原子力の議論にも参入してきているので、新しい流れが出てくればいいなと思うのですが。
旧来の原子力ムラの方達の論の立て方は、敵対する相手をどう言い負かすかに特化した我田引水な論理展開があまりに多く、これで多くの人に受け入れられるのはまず不可能だろう、と思います。
前にホックシールドの『壁の向こうの住人たち』を読んだ時に感じたことから変わっていないのですが、時代の変化の激しさが陰謀論を呼び込んでいる側面は大きく、ファクトとエビデンスが重要であることは否定しないものの、それがあまり対向的な力となり得ないのは、人びとが求めているのはファクトでもエビデンスでもなく、意味のある人生なのだ、という点から考えても当然のように思います。
自分の人生から疎外されたと感じている人たちに、もう一度人生を自分自身のものと感じさせるのを可能にするのは、データでもファクトでもエビデンスでもなく、自分の人生の主人公である人生を取り戻すことだろうと思いますが、現在の社会はそれがもっとも難しい、とも思います。
https://note.com/ando_ryoko/n/n1b383952d310?magazine_key=mcc9b3b587f57
私はジャーナリズム論はまじめに勉強したことがほぼないのですが、昨今の陰謀論があふれているのは、ファクトやエビデンスの軽視とはまったく別次元のところに根元があると思っていて、それは、むしろ物語への渇望だろうと思っています。
この場合の「物語」は、アンダーソンの『想像の共同体』で提示されるナショナリズムであったり、さらにそれより奥深い、人間の認知機能の根幹を支える、辻褄の合わないことは人間は理解できない、といったことを意味しています。
陰謀論の隆盛には、その人たちがファクトを知らないからではなく、仮に知っていたとしても、それ以上に、今の世界のわけのわからなさが引き起こす、よるべのなさ・所在のなさが強く、そこを辻褄あわせる物語が陰謀論になってしまっているからだろうと思っています。
物語は不要なのではなく、より健全な、より多くの人を包摂する物語が必要とされており、マスメディアがそれを探索的に提示するのは、役割のひとつではないかと私は思います。
昨今の複雑化した社会のなかでデータ報道の重要性が増していること、また調査報道の重要性も否定しませんが、どうにもこの手の議論になると、エビデンスやファクト、データ至上主義のような主張が強く出てくるのは、日本の言論界のマッチョイズムのせいなのだろうとは思っています。
X側が歩み寄りを始めているそうなので、ブラジルのX禁止は解除される日も近いかもしれないのですが。Xが禁止される前と後の社会実験的な調査報告もこれからなされるでしょうから。どんな結果が出るか関心があります。
現在の世界情勢の不安定の背景には、グローバリズム化による経済格差と、移民による人口流動に加えて、パンデミックの時期の閉塞的環境が大きいと思いますが、Xによる社会に対する一般的信頼の低下も大きいはずなので、変数Xの影響がなくなれば、どのような社会状況になるのか見えるまで、もう少しX禁止が続かないかなと願っています。
ブラジル「Xなき日常」1カ月 3割がメンタル改善
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN10CZ70Q4A910C2000000/
「復興の総仕上げ」のような大仰な言葉を振りかざしているうちに、自分でもなにを言っているのかわからなくなって、迷走・暴走していくパターンをみていると、ひと昔前の田舎の飲み会で、おじさんたちが酒を飲んでいるうちに、「無礼講」になって、どんどん声が大きく、話は下品に、行動もタガが外れていき、そのうちに(互いにわけのわからないことを言い合っているだけなのに)あちこちで口論や怒鳴り合いがはじまった挙句に、乱闘に至る、というパターンを思い出します。
「全員、冷たい池のなかにでも入って頭を冷やしてこい!」と怒鳴りつける「肝っ玉お母さん」役もいたりするのは、ホームドラマの世界だけで、実際は、みっともなく酩酊したまま、翌朝を迎えることになるわけですが、こういう感覚に若い人がついていけないのはあたりまえですし、若くない私だってついていけません。
いい大人なのですから、自分がなにを言っているのかくらい、自分で理解した上で話していただけませんか。
第一原発のデブリ試験取り出しのためのカメラ、結局、回復しなかったので交換とのことですが、高線量で動作しなくなったのなら、同じカメラを取り付けたのでは、また同じように止まってしまうことになると思うのですが、どうするのでしょうか。
福島原発デブリ取り出し、故障カメラ回復せず 交換検討:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA037MH0T01C24A0000000/
「復興の総仕上げ」という言葉はだいぶ前から政府から出てきている言葉ではあるのですが、こう言う言葉を見るたびに思います。
どうして、日本人のエラいおじさんたちは、なにを指しているのかさっぱり意味不明な、やたらに大仰なこの手の言葉を掲げて、そのうち自分たちでも何を言っているのかわからなくなった挙句に、言葉に引っ張り回されて、迷走・暴走する、ということを繰り返すのでしょうか…。
(大丈夫かな、この国。いや、もう、すでに大丈夫じゃないんだけど。)
「復興の総仕上げとして被災地への帰還や移住の促進、風評被害払拭の取り組みといった政策を推進するよう石破茂首相から指示を受けたと明らかにした。」
伊藤忠彦復興相、福島原発デブリ回収「緊張感持って」:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA026MR0S4A001C2000000/
不同意性交罪の検挙が、前年比で2倍ペースになっているのは、先日も書きましたが、10代前半やそれ未満の子供に対する性加害もかなりの頻度でニュースになっています。
これらも親告罪であったことを考えると、まず親告するかどうかの判断を迫られ、子供に傷がつくからなどの理由から、そのまま野放しになっていた性加害者が相当数いたことが容易に察せられます。
不同意性交罪が成立するときに反対する意見が相当にあった理由がよくわかります。
また小学生未満の小児への性犯罪を行なって逮捕された人の供述で、「児童ポルノを見て自分もやりたくなった」との証言がかなりの頻度で見受けられるので、児童ポルノを「表現の自由」の範囲内に含めるのには、私は明確に反対です。明らかに性犯罪を誘発していると言えます。
13歳未満の知人の娘にわいせつ行為か 不同意性交等容疑で24歳男逮捕 両親が女児の異変に気づき警察に相談 奈良市
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b00bd7ffd799c1c293d525debda82bbe38ad686
マイク切り問題のあった環境大臣も退任ですが、大臣のその後の対応は被害者サイドに評価されているのなら、よかったです。
「水俣病被害者・支援者連絡会の元島市朗事務局長(69)は、「マイク切りは、日頃の環境省の姿勢が表れた問題と感じたが、大臣が前面に出て我々と向き合い、解決に向けた協議を始めてくれたことを評価している」と語った。」
水俣病懇談会でマイク切り対応の伊藤環境相「後任の大臣も現地の声を丁寧に聞いてほしい」
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20241001-OYT1T50098/
それから、国の復興政策の基盤となっている行政システムそのものが現実と大きな齟齬があるのは、遠藤村長のインタビューの以下のところによく表れていると思います。
「遠藤村長は「村が求める事業に『それは復興政策ではなく過疎対策ではないか』と国から言われ始めている。しかし、村単独ではどうにもできない課題が多すぎる」と話す。」
時間が経過すればするほど、「復興政策」と元々抱えていた問題との峻別は難しくなります。
災害というのは、本来的に、もともと地域に存在していた問題を、加速化・悪化させる性質があるため、「ここまでは復興政策」「ここからは元々の地域課題」というふうにわけることは不可能なのです。
それを分けようとするから、意味のわからない広告代理店政策かイベントか工業団地作りのようなものばかりが連発されることになります。
まちがいなく復興政策と言えれば、「風評払拭スゴロク」、「著名芸能人を大枚かけて呼んで風評払拭サンバダンス祭り」「中高生に風評被害者刷り込み教育で復興促進」といったものは通るのに、本当に被災地で必要とされている過疎化や高齢化、山間地での高校生の進学確保には予算をつけられない、というのは、制度的疲弊といえばそれまでですが、あまりにひどいと思います。
川内村の復興事業検証の記事、24時間無料で読めるようにしました。
川内村の遠藤村長は、唯一の震災時から残っている首長さんということもあって、事業に対しての責任意識もお持ちなのではないかと思います。
県も含めて、ほかの自治体も身を切る覚悟がなければ、震災からこっち膨れ上がった予算で水膨れ体質は変えられず、将来的には手がつけられないことになるのでは、と危惧しています。
特に県庁の、県庁そのものが広告代理店化している体質、「風評払拭」「復興宣伝」と言いさえすれば、どれだけ無駄金を使おうとも、誰がなにをしても構わない、という体質は、大きな負の財産になったと思います。
「村が取り組んだ復興事業は1500項目に上り、10月にある役場内会議で評価し合う。原発被災地で初の取り組みで、優先度が低いと判断した事業は、国への予算要求をやめる。身を切る作業だが、将来にとって継続が欠かせない事業を明確にし、確実に実現につなげたいとの思いがある。」
避難解除10年、村の宝育てたい 福島・川内、復興事業検証へ
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16048598.html?ptoken=01J96FME1QG37XA3VA4XZR7TMR
山麓線を運転しているときに、お天気がいい時は特に、景色を見ながら、事故が起きたことを忘れていることがあります。
感覚が事故前に戻っているんです。工事中だったり、景色が事故後に激減した場所に来た時に、突然われに返って、「そうか、事故が起きたんだった」と愕然としてしまう、ということが何度かありました。
事故があったことを忘れていたことにも驚きますが、認知システムが自動化処理モードにはいっている時に、脳内で事故前の感覚に接続される現象が起きるのだろうと思います。
私は、地元出身でもないし、避難区域に暮らしていたわけでもないので、時間が経てば、事故前の記憶は薄れていく一方だろうと思ったのですが、そうではないようです。
よく年をとると昔のことばかり思い出すといいますが、きっとこんな感じで認知システムが昔の記憶につながってしまうのだろうと思います。そして、おそらく年を取るほど、こういうことは増えていくのではないかと思っています。
考え違いをしてほしくないのは、仮に復興ができたとしても、事故を起こしたことは「なかったこと」にはならない、ということです。
そこで辛い思い、悔しい思い、悲しい思いをした人の記憶は消えないし、暮らしていた場所を失った人たち、家族を失った人たちは、その後安定した暮らしを取り戻したとしても、かつてあった暮らしを失ったことを忘れるわけではない。
逃げ惑った記憶はなくならないし、解体された家は戻らないし、空き地になった場所に、新しい建物が建ったとしても、以前の風景は戻らない。
新住民が増えて、新しい街ができたとしても、それは事故があったことが「なかったこと」になるわけではないです。そこは、考え違いをしないでください。
読んでいて、ああ、やっぱりそうだったんだ、と思ったのが、エネ庁長官だった日下部さんの記事。
原子力を今後どの程度利用するか、に、「福島の復興状況はどうか」が含まれていることをはっきりと語っています。
だから、原子力を今後も活用するためには、なにがなんでも「福島は復興した」ことにしなくてもいけない、という論理になっていき、復興アピール広告代理店作戦につながっていく、という筋がきれいに見えました。
「――14年の計画以降は「可能な限り原子力依存度を低減」という表現が盛り込まれましたが、見直しの余地はあるのでしょうか。
「常に考え続けるべき大事な論点です。福島の復興状況はどうか、原子力の信頼は回復したのか、自律的な技術はどれだけあるのか、エネルギーの逼迫(ひっぱく)するリスクはどれだけあるのか。日本を取り巻くエネルギーの状況を検証して議論すべき時期を見極めることが大事です」
」
原発依存度は「常に考え続けるべき論点」 元エネ庁長官に聞く政策論
https://www.asahi.com/articles/ASS9K2RB7S9KULFA018M.html?iref=pc_rensai_long_862_article
朝日のエネルギー関係の連載がはじまっていたのですね。
https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=862&iref=pc_rensai_article_breadcrumb_862
作家/NPO福島ダイアログ理事長/博士課程後期在学中
原子力災害後の復興政策と地域住民のギャップを埋めるためのローカルプロジェクトの意義と重要性について研究する予定。
・著書『海を撃つ』(みすず書房)
『スティーブ&ボニー』(晶文社)
『末続アトラス2011-2020』(福島のエートス)
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