読んでいて、ああ、やっぱりそうだったんだ、と思ったのが、エネ庁長官だった日下部さんの記事。

原子力を今後どの程度利用するか、に、「福島の復興状況はどうか」が含まれていることをはっきりと語っています。

だから、原子力を今後も活用するためには、なにがなんでも「福島は復興した」ことにしなくてもいけない、という論理になっていき、復興アピール広告代理店作戦につながっていく、という筋がきれいに見えました。

「――14年の計画以降は「可能な限り原子力依存度を低減」という表現が盛り込まれましたが、見直しの余地はあるのでしょうか。

 「常に考え続けるべき大事な論点です。福島の復興状況はどうか、原子力の信頼は回復したのか、自律的な技術はどれだけあるのか、エネルギーの逼迫(ひっぱく)するリスクはどれだけあるのか。日本を取り巻くエネルギーの状況を検証して議論すべき時期を見極めることが大事です」

原発依存度は「常に考え続けるべき論点」 元エネ庁長官に聞く政策論
asahi.com/articles/ASS9K2RB7S9

そして、その「復興」は、福島の被災者にとっての復興でなくともかまわないわけです。

とにかく見栄え良く、対外的に「福島は復興しました」と言えさえすれば、原子力を今後も活用していく言い訳はたつので、被災者がどう思っていようとも関係がない、という論理につながっていきます。

それが、「風評払拭」と一体化しているため、福島復興アピール大作戦が、なんともきな臭く、邪なものに感じられる理由なのだろうと思います。

私は、原子力への賛否はいいませんが、原子力の再稼働のために福島復興を利用するのはやめて、というのはずっと言っていると思います。

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考え違いをしてほしくないのは、仮に復興ができたとしても、事故を起こしたことは「なかったこと」にはならない、ということです。

そこで辛い思い、悔しい思い、悲しい思いをした人の記憶は消えないし、暮らしていた場所を失った人たち、家族を失った人たちは、その後安定した暮らしを取り戻したとしても、かつてあった暮らしを失ったことを忘れるわけではない。

逃げ惑った記憶はなくならないし、解体された家は戻らないし、空き地になった場所に、新しい建物が建ったとしても、以前の風景は戻らない。

新住民が増えて、新しい街ができたとしても、それは事故があったことが「なかったこと」になるわけではないです。そこは、考え違いをしないでください。

負の記憶と向き合うのは、そんなに悪いものではないですし、人間は、失敗を通してしか変わることができないという事実からしてみても、とってつけの「復興」で誤魔化さず、失敗は失敗ときちんと認めて向き合う方がはるかに有益だと思います。

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