それから、国の復興政策の基盤となっている行政システムそのものが現実と大きな齟齬があるのは、遠藤村長のインタビューの以下のところによく表れていると思います。
「遠藤村長は「村が求める事業に『それは復興政策ではなく過疎対策ではないか』と国から言われ始めている。しかし、村単独ではどうにもできない課題が多すぎる」と話す。」
時間が経過すればするほど、「復興政策」と元々抱えていた問題との峻別は難しくなります。
災害というのは、本来的に、もともと地域に存在していた問題を、加速化・悪化させる性質があるため、「ここまでは復興政策」「ここからは元々の地域課題」というふうにわけることは不可能なのです。
それを分けようとするから、意味のわからない広告代理店政策かイベントか工業団地作りのようなものばかりが連発されることになります。
まちがいなく復興政策と言えれば、「風評払拭スゴロク」、「著名芸能人を大枚かけて呼んで風評払拭サンバダンス祭り」「中高生に風評被害者刷り込み教育で復興促進」といったものは通るのに、本当に被災地で必要とされている過疎化や高齢化、山間地での高校生の進学確保には予算をつけられない、というのは、制度的疲弊といえばそれまでですが、あまりにひどいと思います。
あれだけ復興予算があったのに、こんなに愚かしい使い方しかできないのか、本邦は。という絶望感は強く持っています。
というよりも、それが愚かしい使い方であった、と内省できていないどころか、口先できれいなことを言いながら食い物にしているだけの人たちに率先して配っていく統治機構の内部の人たちに絶望している、ということかもしれません。
たんに制度がダメなだけなら、変えればいいだけなのですが、変えようとさえしないで、食い物にする人たちに率先して配っているのは、さすがに擁護のしようがありませんから。