オリンピック選手候補だったうちのじーさんは、徴兵されて西洋スポーツをやっていたせいで見せしめに南方戦線に放り込まれて、二度も玉砕の危機に巻き込まれたから、我が家で戦争とか特攻隊カッコイー!みたいな話は絶対に禁句だったんだ!
一度、アホのカッペの親戚(田舎すぎて戦争の影響がまったく無かった)が、特攻隊は素晴らしいみたいなことを語りだしたらじーさんがパニックを起こしたことがあったらしい。じーさんとものすごく仲が悪かったうちの親父(じーさんの息子)に「俺でもあれは気の毒に思った」と言わしめるくらいだった。
特攻隊カッコイー!な発言をしてるオリンピアンって、自分がマルタ一歩手前なのわかってんのかね?
「自分は特別である」——このような自我の肥大化から脱出できないかわいそうな人々は大勢いる。
日本の世襲政治家である麻生太郎氏の逸話が強烈だ。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03250557/?all=1
「衆院選での演説の第一声は“下々の皆さん”」
「記者に向かって“お前らさぁ、金持ちの家に生まれた苦労は知らねえだろ”」
「総理番の記者たちのマナーや言葉遣いが悪いと言って“質問者を代えろ!”などとよく怒っていた。“目上の人間にきちんと口も利けないヤツにインタビューさせるんじゃねえ”という感じで。いつもイライラしていましたね」
麻生氏の人物評。
「安倍さんが麻生さんを重用したのは、政治力もありますが、やはり境遇が似通っているからでしょうね」
「アリストクラシー、貴族主義の人。だから下々より俺の方が仕事ができるという自負がある」
感想:
政治家、権力者は「自分は特別だ」という考え方に陥らないよう自らを戒めることが求められる——と私は考える。しかし麻生太郎氏の場合、良く言えば肥大した自我に苦しみ続け、率直にいえば愚かさから脱却できていない。
他の世襲政治家も、程度の差はあっても似た問題を抱えているだろう。
世襲政治家がのさばり縁故政治が幅を効かせると、自由な民主主義と資本主義の活力は失われていく。要警戒。
予想通り小沢が野田支持を表明したらしい。つまり小沢も維新との「共闘」を選んだ、ということ。
ところで提灯学者の山口二郎は「中道保守の結集」などと痴れ言を宣っていたが、維新は紛れもない極右。
大阪・神戸の人なら良く知っていると思うが、「維新」は基本自民党の2世・3世を中心にした「ギャング集団」である。「ヤンキー」などというかわいいものではない。
「ギャング」は法の抜け穴をよく知っているだけにたちが悪い。現在の兵庫県知事(維新)も、常識的にはとっくに辞任している筈だが、法の強制力がないことを利用して居座り続けてている。これを援護射撃しているのが、ZEN大学副学長予定の上山信一である。
兵庫では県知事の「パワハラ」で少なくとも2人が自殺に追い込まれたが、大阪では現在までに10人近くが「イジメ殺された」と見られている。
この極右「ギャング」集団と国政レベルで共闘などととは、仮に立憲が「リベラル」ならあり得ないこと。結局立憲多数派の「メッキ」が剥がれて地金が出てきたということだろう。
しかし自民党も宏池会的リベラルは圧倒少数とあっては、どうも日本の代議制システムそのものが機能不全と言う他ない。
本来それを批判するべきメディアが朝日を筆頭にそれに加担しているだから、世も末感漂う。
日本政府にアメリカから独立して戦争をする能力がないとしても、国内問題への不満をそらすために外国に敵を見つけることは伝統的な政治手法ですから、そちらに舵を切らないとも限りません。『1984年』のような、全てが偉大な指導者のおかげでうまくいっているのだが全然生活は豊かにならず、何が起きているのかもよくわからない社会になっていくのかもしれません。
中国やロシアの侵略に備えるにせよ、大日本帝国よもう一度をやるにせよ、日本を豊かにしておくことは大前提だと思います。「日本を豊かにするためには日本人の給料を下げなくてはならない」とかいう奇怪な説を唱えた人間を追放しておけばよかったのですが、追放どころか現役バリバリです。
先の戦争の敗因で今も残っているものの最たるものは、社会のトップ層ほど愚かだということでしょう。『失敗の本質』を読んで「これはうちの会社のことではないか」と思う読者は多いでしょうが、トップの無能を現場の超人的な努力でカバーする姿勢が全然変わっていません。ソ連の軍人に言われたままの日本です。
しかし社会のトップ層は、自分たちが有能になってでも次の戦争に勝ちたいとは思っていないはずです。「記憶にございません」「仮定の話にはお答えできません」「承知していません」を連発する政治家は自分が有能な人間に見えるとは思っていないでしょう。むしろ「自分はえらいのだから、愚かであることが許される。どうだ、俺はバカだろう。それは俺がえらいことの証拠だ」と考えているのではないでしょうか。
昨夜の #映像の世紀バタフライエフェクト で「ナチス政権下では新婚家庭に『我が闘争』が配布された」という話を見て以来、国家が本を通して個人に介入することとか国家が本を配布する支配性や暴力性を考えている。
焚書により知の空白地帯を作り出したナチスが個々人の家庭にイデオロギーを送り込む悍ましさは言うまでもない。
それ以前の「国家が本を配る」という行為を考えたい。
「『我が闘争』をいらないと笑う人は『知的水準向上のため貧困家庭へ名著を配布』とか『育児支援の一環で絵本を配布』とか国家が言い出したら同じようにいらないと言ってくれるかな?」という危惧はある。
「そんな本読まないからいらない」ではなく「内心の自由、学問の自由、個人の良心に国家が介入することだからやってはならない」とまで考えてくれる人はそんなに多くない気がする。
むしろ上記のパターンなら「つべこべ言わず有り難く受け取れ」「読んで学べ」という声さえ上がる気がする。
贈られる本が『我が闘争』だからいらないのではない。
国家が本を配布することそのものが支配であり暴力なのだ。
「こんな本が読みたい」と望む子どもに慈善団体が本を寄付するのとは権力勾配が明らかに異なる。
笑っている我々に明日「これを読め」と国家から本が送られて来ないとは限らない。
読んだ。
これは結構ちゃんと覚えてるな。
確かにこんな雰囲気だったな。