演奏のためにあるお宅へ伺った折、亡きご主人の写真が楕円の写真立てに飾られ祈りの言葉が添えてあるのを目にした。
楕円の写真立ての遺影、すてきだったなと、今日ふと思い出し懇意の輸入雑貨店へ。

求めた写真立てには最後に自分で撮ったニケの写真を入れた。写真を選んで印刷するだけなのに愛おしくて寂しくて涙がとまらない。
まだ悼むに足らない自分の心の弱さを痛感する。ニケを心から穏やかに想える日はいつだろう?

とつぜんにドガへの思慕。日本でドガ観られるところどこだっけ…。

先日、YouTubeへJean-Philippe Rameau : “Fuyez, fuyez, vents orageux” をアップ。
ラモーのアリア、身体がよろこんだ。“Vien Himen”をどなたかとご一緒できる機会も楽しみに、もう暫し温める。
youtu.be/fd4XdMmW2Gg

マティス展よかった話。

4年ほど前に箱根のポーラ美術館で観た折はモネとの空間対比をテーマにした展示でとかく人⇔マテリアルの印象に終始したが今回の展示では画家自身の人柄のやわらかさとか境界線の限界への探究とかについて面白く知れた。

礼拝堂の内装デザインを手がけた仕事の一抹が映像作品になって展示の結びを飾り、それがほんとうに良かった!泣きたくなるほど綺麗だった。
礼拝堂の建物だけじゃなくヴァンスの街や自然への想いが丁寧に織り込められていて。

このロザリオ礼拝堂がどんな場所か気になってあとから調べるとカトリック・ドメニコ会によるところで、異端者の帰正、すなわちキリストを捨てたもの愛してこなかったものへ差し伸べる手を重要とした、駆け込み寺のような特徴を持つらしい。
マティスが「信仰を持たない者でも心が冷静になる場所であるように」と志したのは在りし日の礼拝堂の存在意義に図らったか、いずれにしても優しさに満ちていて、ここを訪れてみたいとついつい思いを馳せる。かれが格別に美しいと話していたらしい冬の陽光を、礼拝堂のステンドグラス越しに浴びたらどんなにかすてきだろう。

34歳の誕生日。34歳ですって。大人だね。
今年の目標は自分の年齢を考えたとき年齢がもつ印象と自分自身とにギャップを感じないくらい成熟した佇まいを身に付けることです。(正直言って毎年自分の年齢にびっくりすることの連続で、そのたび未熟を痛感している。恥。)若輩のつもり、という甘えをそろそろ捨てないと。

今日は朝の中頃から一日ずっと雨が降っていて、同じく誕生日のブラームスを聴くにはお誂え向きの日和だった。ヴァイオリンソナタ一番《雨の歌》…この曲でブラームスが描く光に何度心を救われたか。この音楽に身を尽す誓いを胸に改め感謝する。

朝は雨が降る前の早い時間、家の近くの公園を犬たちと散歩した。シロツメクサが咲いて新緑まばゆい広場は保護犬あがりの犬には歩きづらいらしく、その緑の美しさに感動する飼い主をよそに、犬は退屈そうに時間を潰しているようだった。

昼下がりは雨の中テラスでコーヒーを飲む。家のテラスでコーヒーを飲む時間が大好きだ。
静かな雨音のひととき、義母に貰った花束の薔薇は瑞々しく、無上の幸福を噛み締める。

こんな暮しをこつこつと重ね、五感と心を育ててたい。善き人間になれますよう。

昨日は朝から師匠のもとへ行った。前日の国際女性デーにちなみ、手土産にはミモザ美しいお花束を。
レッスンは時間超過してまでたっぷりと発声について指導いただく。発声だけのレッスンなんて贅沢だ。「歌は地道な勉強で先は長いけど、根気強くやっていきましょう。私も根気強く教えるからね。」とあたたかい言葉をいただき思わず涙が込み上げる。勉強を続ける難しさ、挫折した弟子を多く見送ってきた人ならではの言葉の重みを感じた。
自分がいつまで、どこまで努力を続けられるか、自分でもわからない。誰にもわからない。やってみた後にしかわからない。だからこそ、行く道に光がありますようにと祈るより、行く道を照らす光を自分自身が強く持とうと思う。歳を重ねて変化した考え方。

雪柳、沈丁花、花桃…春の花たちが一斉に咲き始めた。ここからしばらくは一年で最も彩り豊かな季節だ。嬉しいな。

球根モノの花があまり好みじゃないのかもしれないな

イギリス帰りのモデル仲間が半纏を外套にしていて、それはもうクールだったので、会った後その足で布団屋に駆け込んだ。モードな装いをしないとキマらない?と思ったけど案外ラフな格好にもちゃんとキマってくれるのね。布団を纏っているようで嬉しいあったかさ。家に既にある、お洒落なインテリアショップで買ったお洒落な半纏、あれとは比べ物にならないしっかりさと綿の充実度!家のは家ので手軽に羽織れて気に入っているけど外へは着て出かけられないので、やはり改めて昔ながらのモノづくりに感服しちゃうな。

miku さんがブースト

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もともとTwitterを大いなる図書館だと思っていた。赤の他人の壁打ちを覗いては去る、の繰り返しが好きだった。今はそれがmastodonで、とても心地いい。mastodon、どうか流行りも廃れもせず生き残り続けてほしい。

焦らずサボらずの繰り返しでしかないのだよなあ

仕事中「されれれば」という言葉が耳に入った。「もし、されることが可能であるならば」という微妙なニュアンスを、よく使われがちな「されれば」と分けて言い換える咄嗟の無意識を目撃した気がして思わず胸が躍る。正しい言葉遣いはそりゃあ大切だが、言葉は正しさの前に在るとも亦。

昨日、家に帰るころ空はまだ薄明るくて、でも月がよく光ってた。線路の上を架かる橋の上で満月が近いねなんて話しながら何度も見上げては、この月をやはり忘れたくないなと思う。そんな気持ちになった日の月を誰かが写真に撮ってSNSに載せると、そしてそれを翌日のタイムラインで見かけると、とても嬉しくなるもので…ありがて〜。

ニケの容体急変の知らせを受けて病院まで向かうも間に合わず、獣医は心肺停止のあと45分、死後硬直が始まっても私の到着まで心臓マッサージを続けて、私が到着した瞬間に死亡を認めた。
発作が起ころうが苦しもうが、エゴでもなんでもいいから、一時退院のまま無理矢理にでも家で看取ればよかった。そんなことしたらしたで「打てた手を打たなかった」と自責するくせに。
ニケが生きてるころたった一つの切実な願いは「腕の中で看取ること」だった。願いはたった一つだったのに叶わなかった。

伸び伸びと、しかしオフィシャルに発信できる、mastodonの心地よさ。。
ここに記しますが来年は5本の演奏映像作成が目標です。
・Purchra es / C.Monteverdi
・Ombra mai fu / G.F.Händel
・Bist du bei mir / J.S.Bach
・Mondnacht / R.Schumann
・Morgen! / R.Strauss

とりあえずこの辺かなあ…うーん。
ドイツリートで揃えてもいいのかも。

神保町の話。
移転のミロンガや閉業の古賀書店に足を運ぶ。大好きな街が少しずつ枯れていくようだ。もっと沢山足を運べばよかったと今さらになって悔やむ。
ミロンガでは完全閉業する姉妹店の形見分けにと、いくつか什器をいただいた。
中でもジャンク品の電灯は立派で、ジャンクといえどスイッチに気をつければ煌々と光る。その佇まいに思わず敬意を馳せ、歴史あるお店を長く支えてきた道具を受け継げる有り難みを感じた。わが家でその光を灯し続けてもらおう。
古賀書店ではエゾテリスム音楽と評されるフランスバロックの研究書とドイツリートの本を。ここで買ったのだといつでも思い返せる、長い時間をかけて大切にできる本を選んだ。
買った本を受け取るさい、店主へ「長い間ありがとうございました」と声をかけさせていただくと、ご夫婦揃ってお顔を上げてくださり「バテました」とにこり。
ほんとうに、お疲れさまでした。さびしい。

演奏会終わったー。今年の所感はとにかく「一歩ずつしか成長できない」に尽きる。20年目でどうして今更こんなこと感じるかというと、本当に勉強したい分野に“今”辿り着いて、初めて歓びにふるえながら勉強しているからだ。
好きなことへの学びは吸収が速く、こんなに勉強してるんだから演奏会の機会には百歩くらい進める!と確信するが、実際はたったの一歩で毎度がっかり。でも、必ず一歩は進めていたことにも、段々と気づく。
今年最後の一歩となったクリスマスの演奏会はやっと自分の“人前での演奏”を心から褒めてやることが叶うもので、舞台の上では敵のように扱っていた音楽を心から愛して歌えたことに、幸せが胸に溢れる感じをしっかりと捉えた。
演奏自体、まだ技術が足りないけど、明らかに今までとは違う。声に意志があって、身体がむりをしていなくて、アイデンティティの安定からくる軟らかさがあるのだ。ずっと長いこと、迷子の子どもがぐずるような歌声だったなと思う。今の曇りない歌声が好きだ。この声をもっと磨きたい。
写真は大切な友人からいただいたお花と。香り爽やかな花、清々しい気持ちで余韻に浸りつつ愛でています。

半年のセットに悩む。自分に何ができるのかという…。うーん。Monteverdiやりたいですが…うーん。

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