Mastodonに集うことは正しい、かも by 孔子
知者愚者の別はともかく、世の中が狂っていると、何か言いたくなる/働きかけたくなるのが人の常なのは、身に覚えがあるだけに痛みを感じるが。
狂った世の中で名を上げたのなら、それは正しく狂っているということであり、故に狂った世の中で愚者であるのが、知者であることなのだろう。
さしづめ、Twitterその他で名を上げるぐらいなら、自分でMastodonサーバ立ち上げて篭っている方が正しい、とも受け取れる。
孔子、何と恐ろしき視点。
確かに、愚者になるのは難しいなあ。
以下、超訳論語より引用。
〇七三 愚者になるのはむずかしい
衛の国の大夫であった甯武子は実に立派な人物だった。国に道理が通っているときには、彼は知者として現れた。ところが国に道理が通らなくなると愚者になってみせた。
その知者ぶりは、真似できなくもないが、その愚者ぶりは、なかなか真似できないね。
(公冶長第五21)
(安冨歩著「超訳論語」より)
「すずめの戸締まり」観てきた2/手に入れた、のではなく
違ってたね。手に入れたのではない。
もともとその手の中にあったんだ。
黒塗りの日記、足のかけた小さな椅子。初めからなかったかのような「普通の家族」。
朧げな記憶の中で、母だと思っていた人は、「未来の自分」だったこと。「普通の家族」は、始まる前に失われていた。
始めからなかったものは取り返せないが、手の中にあったものには気づくことができる。
それは「何も決まっていない未来」のことだったのだろう。
「要石」になるのは、その状態で固定されることだとすると、そこからの脱出は、「何も決まっていない未来」に還ってくるということになるのだろう。
新海誠の作品は、「喪失と成熟」という観点からは、評価が難しい。
過去の作品から共通しているのは、主人公が「行って還」ってくるが、行く前とは何がどう変わっているのかが読み取りづらいこと。
失われるはずのものが失われず、では何を手にしたのかというと、それもよくわからない。
よくできた作品だとは思う。そして、「喪失と成熟」でストーリーを描くことが、困難な時代に生きているのだな、とも感じた作品だった。
「すずめの戸締まり」観てきた/ネタバレかも?
地元の映画館で終了間近なので駆け込みで。
物語の基本は「行って還る」と考えてるので、その点では基本に沿った構成で、キチンと出来てる。
もちろん行って還る過程で何を失い何を手にしたのか、その結果始めとはどう変わったのかに注目するのだが、この映画は「既に失った」状態で始まる。「行き」は唐突に始まるのも定番。自ら開けてしまった扉を閉じに行くのだが、そうしなければ「未来がない」から閉じに行くしかない、ということだ(でなければ自分が要石になるから)。
ではすずめが失っていたものは何か。
読み取れるのは「あるはずだった家族」。朧げに記憶する母らしき人の姿がその象徴だか、すずめはいわゆる普通の家族の暮らしは知らない。彼女の家族生活の印象はひどく薄い。
現代日本は最早「取り戻すべき家族像」すら覚束ないが、それは既に本邦の現実である。ここで代替案を出さないのは良い点か。朧げな母の記憶すら未来の自分だったのだから。
そしてすずめは大切な人を取り戻して還る。
取り戻したのは「白紙の未来」だったのかもしれない。
コンテンツの登場キャラクターのような「対象」に内面を認めるかどうかは、「その人自身の内面との向き合い方」を推察するポイントになる。
内面を認めないのなら、対象は只の存在で持ち主はどうとでも「処分」できる。
一方、内面を認めるのなら、対象は「自分と対等な存在」になり得る。
認めるのは他ならぬ自分自身。それは自身の内面と向き合うことと同義と言える。
故に、「対象」に内面を認めないのは、内面との対峙を回避していると推察できる。
なお「回避する」こと自体は問題ではない。それは極めて重く勇気の要る作業で、常時向き合っていては身も心も持たないからだ。
問題なのは、あらゆる対象に内面を認めない姿勢にある。そうすれば「自身の内面」と向き合う必要もないが、同時に「内面を認めない人自身の脆弱さ」を露わにする。
暇空氏の「女性支援団体への監査請求」とそれに同調する者たちは「あらゆる対象に内面を認めない」者たちで、故に「自分自身の内面」と向き合えない脆弱性をさらけ出していると思うのだがどうだろうか。
彼らに聞いてみたいのは、「そんなことをする自分自身の有様をあなた自身はどう思うのか」ということである。
コンテンツ批判をする「女性」に、コンテンツを愛好する「男性群」から無数の反抗リプが飛んでくるの、リプ飛ばす男性側がコンテンツに「同化」乃至「埋め込まれている」ような接し方してるからではないか?
コンテンツと「同化」していれば、コンテンツへの批判は自身への批判にしか見えないからね。
そのコンテンツ批判への「反発」から、熱海の居酒屋さんへの執拗な嫌がらせや女性支援団体への「的外れな監査請求」みたいなことするんじゃ、いずれ結局はこの社会の自身の居所を自分でなくすよな。
コンテンツに溺れて自身の社会での居場所を自ら崩すのは、悲劇なのか喜劇なのか?
飲酒運転で事故起こしてから、「そんなつもりはなかった」と言ったところで、自身が起こしたことの責任は自身が償わなければならないことと同じだ、ということに、いつまで気づかないふりできるのだろうか。
RT @HajimeNatsuyama
本好きにはたまらない話題。
クソ本やクソ情報が増えたことを見事に逆手に取っているところが快感。それに呼応して店に足を運ぶ本読みが多数いることも分かってなお嬉しい。 https://twitter.com/yoshilog/status/1611617423001632768
ナチスの強制収容所の囚人が発明した持ち運び可能な手回し式計算機「クルタ計算機」とは? - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20230107-hand-cranked-calculator-curta-nazi-concentration-camp/
Mastodonのアカウントは、
個人の私的アカウントとしてひっそり運用するのか、
ある程度フォロワーを受け入れてパブリック運用するのか、
方針をはっきりしておいた方がいいと思います。
両方が必要なら、別のアカウントにわけます。
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ひっそり運用するつもりの個人用アカウントは、次の設定を確認し、適切に指定しておきます。
・フォロー承認制にする
・投稿のデフォルト公開範囲をフォロワー限定にする
・ディレクトリに掲載するのチェックを外す
・[Fedibird] 投稿の検索範囲をフォロワー限定かリアクション限定にする
・フォロワー以外からの通知をブロック
・フォローしていないユーザーからの通知をブロック
・フォローしていないユーザーからのダイレクトメッセージをブロック
・検索エンジンによるインデックスを拒否する
・繋がりを隠す
・[Fedibird] フォロー数を隠す
・[Fedibird] フォロワー数を隠す
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イラストをみてもらうとか、何かを伝えるためのアカウントとしてパブリック運用する場合は、
・フォロー承認制にしない
・ディレクトリに掲載するのチェックを入れる
のが重要です。
ディレクトリの他、おすすめのユーザーに掲載される条件になります。
自分がいわゆる陰謀論に詳しいかというと、そうではなく、単に9・11の時にまさに「陰謀論」にハマっていたからに他ならない。
何にハマっていたかというと「冷戦終結後米国は唯一の超大国になったが、単独覇権の維持は無理と悟り、世界を多極化させ、責任と負担を分散させる方針へ変化した。それは米国の軍産複合体の生き残り戦略にも合致。分散先は同盟国だけでなく対立する諸国も含まれるが、諸国は米国単独覇権の方が何かと楽なので遅々として進まない。なので、故意に失敗するような稚拙な外交策で世界を掻き回し、無理矢理米国と対立するよう仕向けている」という説。
なかなか尤もらしい説で、新鮮に映った自分は、この説を採る方の有料メルマガを1年超購読してたという。
なんで距離を取れるようになったのかというと、他でもないこの方が「米国はじめ世界の労働者市民他によるさまざまな運動が、軍産複合体に繋がる筋から広められた「アンチ軍産複合体」的報道や情報に踊らされている」と言い始めたから。
自分が表明した/行動したことは全て「米国軍産複合体の掌の上」なのかい⁈と思ったのですよ。
その違和感が貴重だった、と思ってます。
12月半ばに、病気を抱える80代の親の通院支援で実家に帰って一泊した時の話。
夜の食事の最中に、両親が急に安倍元首相殺害事件の話を始め、「あれは山上(容疑者)は殺していない。別のところから誰かに狙われたんだ」と言った。YouTubeの動画を村の知り合いに見せてもらったという。
実家は、ネットはなく、携帯電話もテレビの地上波の電波も届かない山奥の一軒家で、情報ソースは1日遅れで郵送で届く新聞とBS/CS放送のみ。そんな場所に暮らす両親が、知り合いが持ち込んだ動画を見て、そんなことを言い出す。
どうしてそう思ったのと聞いたら、「CIAならやりかねない」とのこと。
で、どう思うと言われたので、「それはフェイクだと思う」と返した。「実は別の誰かが仕込んだこと」という見方はどんな出来事でも説明できてしまうし、自分たちが今までやってきた労働組合や社会運動にすらそういう見方ができてしまう。それは、自分達がやってきたことを自ら無意味化してしまう見方だから、と言った。
両親は長く労働組合や社会運動に携わって来た人だから、少しハッとした表情になったことが救いといえば救いだが、いろいろと考えてしまう。
渡辺由佳里さん( @YukariWatanabe )のFinders年頭エッセイで、「巨象の肩に乗って」に言及していただきました。
SNSのアルゴリズムが、伊藤計劃の描いた「虐殺の言語」になっていることを示した書籍Chaos Machineについての紹介は必読です。
https://finders.me/articles.php?id=3503
Twitterはいよいよ限界?もう引っ越ししかない?2023年のSNSとの付き合い方を考える|FINDERS https://finders.me/articles.php?id=3503 @FINDERS_mediaより