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コンテンツの登場キャラクターのような「対象」に内面を認めるかどうかは、「その人自身の内面との向き合い方」を推察するポイントになる。
内面を認めないのなら、対象は只の存在で持ち主はどうとでも「処分」できる。
一方、内面を認めるのなら、対象は「自分と対等な存在」になり得る。
認めるのは他ならぬ自分自身。それは自身の内面と向き合うことと同義と言える。

故に、「対象」に内面を認めないのは、内面との対峙を回避していると推察できる。
なお「回避する」こと自体は問題ではない。それは極めて重く勇気の要る作業で、常時向き合っていては身も心も持たないからだ。

問題なのは、あらゆる対象に内面を認めない姿勢にある。そうすれば「自身の内面」と向き合う必要もないが、同時に「内面を認めない人自身の脆弱さ」を露わにする。

暇空氏の「女性支援団体への監査請求」とそれに同調する者たちは「あらゆる対象に内面を認めない」者たちで、故に「自分自身の内面」と向き合えない脆弱性をさらけ出していると思うのだがどうだろうか。

彼らに聞いてみたいのは、「そんなことをする自分自身の有様をあなた自身はどう思うのか」ということである。

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