プログラミングでは最初に触ったのが PureData・Max/MSP のはずなんだけど、どうにも馴染まず、いっこうに暗中模索感がある。
詰まったときに調べても情報があまりないとか、切羽詰まって必要な機会がなかったとかもあるけど、オブジェクト (関数的なやつ) の名前の覚えにくさも一因かもしれない。
まず基本のサイン波をジェネレートするオブジェクトが「sine~」でも「osc~」でもなく「cycle~」なのにすら、未だに慣れないんじゃ…
フィルター系だけでもこの様子。
オールパス「allpass~」→ わかる
バンドパス「reson~」→ レゾナントフィルタだしまあわかる
ローパス「lores~」→ ギリわかるけど忘れる
ローパス「onepole~」もある → もう細かいことわからない
ハイパス なし → なぜなのか
かと思えば、上記全部まとめた「biquad~」に、さらにそれをいっぺんに複数かけれる「cascade~」まであって、
じゃあ cascade~ だけでいいじゃないですか!!ってなってしまうのよオシャレな名前しやがって multiplebiquadfilter~ とかにしてくれ
韓国ドラマって、2エピソードに1回は誰か泣き叫ばないといけないノルマでもある?
(家族の韓ドラ鑑賞が漏れ聞こえる)
会議が2時間あると、得意でない脳の部分が使われるのかすっかりエネルギーがなくなり、そのあと寝るまで全然使い物にならなくなるのはどうしたものか…
#fedibird
トゥートひとつ560文字という単位が、ひとかたまりの思考を書くのに本当にちょうどいい。
順調にMastodonにはまっている…
基本的には自分のためのツールとして、主に二つの使い方を軸にしようと思う:
✥ 短いスパンの目標を立てて興味のぶれをおさめる。
✥ 言語化される前のアイディアや心の動きを、他人に伝えられる言葉に変換させる。
あとは、ゆるく皆に共有したい話題には #fedibird をつけてみる。
言語の認識って不思議という話。#特に着地点のない雑感 #fedibird
私は言語を使うという点において、おそらく視覚優位らしい。
耳で聞くより目で読んだほうが理解しやすく、情報を整理してまとめたものを文章として書くことが得意。
また、話すときはほとんどいつも、言葉が口から出るのに先立って、自分の頭の中に字幕のようなものが思い浮かんでいる。
むしろ視覚的に言葉が並んでくれていないと、いまいちしっかりと話せないのだ。
だから即興的に口で話すのは苦手で、ディスカッションで素早いレスポンスが求められたり、プレゼンや講義のように一人で長く話す必要があったりすると、脳内の字幕表示が追いつかず言葉が整理されたものでなくなったり、自分が本当に考えていることではない言葉が出てしまったりする。
この現象を人に話すと驚かれるので、他の人はきっと違う感覚で言語を操っているんだろうな。
そう思うと、言語を話すとは本当に不思議なはたらきである。
プログラミングに関するちょっとした疑問を解消するのに、ChatGPTはあまりにも便利。
特に5W1Hを明確にして聞けるから、検索するよりも答えにまっすぐたどり着く。
最近解消してもらったもの:
✥ 複数のNPMパッケージを、dependencies と devDependencies のどちらでインストールすると良いか。
✥ 変数の命名でどれが適しているか。
✥ スクリプトの塊を投げ、それが何をしているものなのか。
「これで最後です」と毎回言いながら何度も修正を重ねるという所業、なにかの罪になってくれないか?
びっくりするほどわかりやすいコンピュータサイエンスの基礎説明動画に出会った。
100+ Computer Science Concepts Explained
https://youtu.be/-uleG_Vecis
抜けていたりばらけていたりした知識が、このたった十数分の動画で非常に美しく整えられてしまった。ありがとうYouTubeおすすめ機能。
【読書メモ】
ロラン・バルト「作者の死」(1968, R. Howard英訳) より
« [...] explanation of the work is still sought in the person of its producer, as if [...] it was always, ultimately, the voice of one and the same person, the author, which was transmitting his "confidences." »
« 作品についての説明は依然として、その製作者の内面/人格に求められる。それはあたかも、作品とは常に「作者」という単一の、(変化することのない) 同一の人物の声による「秘密」を明かしているものであるかのようである (が、実際はそうであるべきではない)。 »
半世紀以上前から、「作者の伝えたいことを正しく知るのが正しい鑑賞/読書である」というような作者至上主義に対する批判があった。
しかし現代でも作者至上主義がまだ根深く残っているのは、この批判が誤りだとされてしまっているのか、それとも理解されないことで無視されているのか。
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。