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自分の和声法の知識がほとんど芸大和声に支配されてるので、そのおおもとをもう少し深堀りしてみようということでフーゴー著『Handbuch der harmonielehre [和声法の手引書] (1887)』を読んでみている。
手引書なので色々前提とか説明をあえてすっ飛ばしているとは思うけど、初手「和音には Oberklänge (倍音) と Unterklänge (倍音を反対にしたもの) の二種類しかない」から始まってて :odayakaja_naidesune:
正誤は置いといて、この時代に和声がどういう認識をされていたかを知りたいので、全体的に論理がゆるゆるなのはあまり気にしないで読むことにする。
この頃から「長三和音は明るさや力強さ、短三和音は重苦しさや悲嘆を表す」という認識は前提としてあったようだ。その言及元はハウプトマン著『Die Natur der Harmonik und der Metrik (1853)』にあるらしいので、そのうちこれも読みたい。

polyglot まではいかないまでも、やっぱりいろいろな文献を直接読めるようになりたいので、ちょっとずつ英語以外の言語も頑張ってやってみることにした。
インプット特化の外国語学習サイト LingQ にも登録してみました。

LingQ
lingq.com/en/

音や sound と訳されるドイツ語単語「Ton」と「Klang」の違い。
音楽の文脈と音響学の文脈とでも意味が変わる。

✍ 音楽における Ton: 楽音。楽器や声などで奏され、ある程度一定の音の高さを保持する単音。
✍ 音楽における Klang: 和音。

✍ 音響学における Ton: 純粋なサイン波音。
✍ 音響学における Klang: 音楽における Ton に近い。複数のサイン波によって形成される複雑な波形の音。

複数の Ton が重なって Klang になるというコンセプトは共通していて、その Ton が何を基準にしているかによって違いが出ているという感じなのかな。

この一週間はだいぶ意識的に休んで、久しぶりにティアキン遊んだり、好き勝手散歩したりした。
来月はオーケストラ楽員に向けた楽曲分析講座をするので、曲の研究に集中する年末になる見込み。
やるぞやるぞ :ablobcat9mp_call:

誰かが「魂が震えるほど良い!」と表すほどの音楽さえ、寂しいことにその良さを1ミリもわからないということは度々ある。
でも、私には見えていない魅力の一端でも感じたいとは思うから、何か作品を紹介するときにその人が具体的にどこに惹かれているかも合わせて知ることができたら、個人的にはとても素敵な広がりだなって思うんですね…言葉にするなんて野暮だというのもあるかもしれないけど…と誰へともなく投げかけてみる :blobcatflower:

ヒィ…
必要最低限のソフトしかインストールしないようにしてるし、データはほぼDドライブのほうに入れてるのに、順調にCドライブが太っていくのは :doushite:

今日降り積もった雪、結晶の形がそのまま残っててとてもきれいだった…

の実績メダルは人生捧げてるレベルのガチ勢でないと届かないのばっかり (偏見) なので諦めることができてたんだけど、いま発生中のイベントではちょっと頑張れば届きそうという絶妙なレベル感。まんまとつられて凍えながらも30分以上の散歩を毎日強いられている :kenkouni_ii:

Wikipedia なら [要出典] と付けられちゃいそうなところも多いねぇ…
書いているときは、いろいろな文献を読んで導いたから、理論が何のほころびもなくつながっていると思いがちだけど、後から見たら「この論どこから出てきた?」ってなるやつ。
当時は情報が広がりすぎて収集つかなくなりかけて、それをなんとか意味が通るようにまとめるので精一杯だったな。文章書くのはシンプルに難しい。

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わけあって自分の修士論文を見直している。当時は死物狂いで書きあげてあまり見直す時間もないまま提出しちゃっていたけど、やっぱり結構ミスが多いな。
最初に4つの単語を列挙しておいて3つのことしか論じてなかったり、言葉の定義が章によって微妙に違っていたりする。

それとは全然別の話だけど、筆者がビデオゲームやコンピュータのペイントソフトに一日じゅう熱中していたとか、体の動きで音が鳴るという自身の作品を1時間ほどテストしていたら、世界中のすべての音が自分の動きによって起こってるんだ!という楽しい錯覚を覚えたが、CDを聴いたらそれが覚めて騙された気分になったとかいうエピソードが合間に挟まれていて、愛すべきギークみが漏れ出ていてちょっと楽しいな…という気分にもなってる。

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インタラクティブアーティスト David Rokeby のエッセイ『The Construction of Experience : Interface as Content (1998)』を読んでいる。
主旨は、インタラクティブアートの「内容 (体験を作り出すもの)」とはインタラクションによって現れるものと捉えられることが多いが、それよりも「インターフェイス」こそが内容である、というもの。
この頃からインタラクティブメディアを通して得られる自由感や支配感のような魅力的な体験の多くは、商業的な文脈によって (欺瞞的に) 演出されているものであって、そのようなコミュニケーションは社会構造そのものや我々の世界の認識そのものを作り変えている可能性を示唆し、それに対して批判的な視点を持とうと呼びかけている。
これは今まさに、また今後もずっと必要な視点だと思う。自分がどういうメディアやインターフェイスの上でコミュニケーションしているかによって、自分自身の意志や行動や世界の枠組みはほとんど必然的にすり替えられている。
もちろんその影響から完全に逃れる方法もあまりないだろうけど、意識しているかしていないかには大きな差はあると思う。

換気してお湯を飲んだら少し楽になってきた。水分不足だったかな。
あと、こういう頭がとっちらかったときのためのアナログノートがあるんだった。都度思考を書き散らしながら作業を進めるのは大いに効果がある。

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今日はなんだか全くこれっぽっちも集中できない :tiredcat:

実体験でないこと、だとちょっと狭すぎるか。全てのものごとを体験できるわけではないし。
よく知りもしないこと、かな。

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勝手に他人の代弁をするとか、実体験でないことを憶測で語るとか、ろくなことがないからシンプルにやめるべきなんだよね。
それで話すことが無くなるのなら、何も話さなくていいと思う。

Fleischmann/Strauss/Bohn: Liquid Views (1993)
isea2022.isea-international.or

水鏡を模したタッチスクリーンがある。鑑賞者はそれを覗き込むことでそこに自身の映像が映し出され、触れることによって水面が波打って映像が乱れることを体験する。
スクリーンの映像は、その作品が置いてある部屋の壁にも実は映し出されており、他の鑑賞者にそれを観察されたり、自分で自分自身を他者の視点から認識したりすることになる。

ちなみに個人的には、鑑賞者としてこれに参加するのは正直非常に嫌だ。
鑑賞者を強制的に他の人の鑑賞対象にさせるのは暴力的ではないだろうか。参加型アートでは稀によくあるけど。
今回は特に、自分自身を鏡越しに見るという最も内向的な行動のひとつを他者に晒させるという点でだいぶ攻撃性が高いと思う…
この作品は何度か様々なバージョンで展示されているらしく、場合によっては鑑賞者の画像が保存されて、行動が分析されることもあるようだ。作品という体で他人に勝手にそんなことしていいの?と私はどうしても思ってしまうのである。

Myron Krueger: Small Planet (1993)
digitalartarchive.siggraph.org

スクリーンの前に立ち、空を飛ぶように腕を広げると、スクリーン内の小さな仮想地球の上を飛び回ることができるという作品。
体を傾ければ進行方向を、腕の高さを変えれば地面からの高度をコントロールできる。
インタラクションが直感的だし、気持ちよさそう。

実際に体験はできないけど、文献で見つけた面白そう/重要そうな作品を見つけたら、 のタグを付けて投稿していこうかな。主にインタラクティブアート、サウンドアート、インターネットアートのあたりを掘っていくことになりそう。

Evernote から大体のデータを救って Notion に移し終えた。大学からの講義ノートとか読書ログとかが大量に発掘されて、懐かしいような寂しいような気持ちになる…
移行は全くスムーズではなくだいぶ大変だったけど、重要な知識の再取り込みに良い機会だったかも。

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