『パチンコ(上)』ミン・ジン・リー(Min Jin Lee)著、池田 真紀子 訳 (文春文庫)
ちょっと前から読んでる。
『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか 』開沼(かいぬま)博 青土社
読了。様々なものが二元論に集約されがちであるからこそ、この「答えのない」感じを抱える必要をすごく感じる。そう、この本を読んでも「答え」はないんですよね。自分の目指す方向というか、今後原発が衰退してほしいのか継続して活きてほしいのか、という、ざっくりでも何かしらの「理想」的なものを持ちつつ、その「答えのない」感じも持ち続けるというのは結構難しい。下手をすると括弧づきの「中立」になってしまうし。それでもやっぱり、その二極に振れる形以外での関心の寄せ方(という表現もかなり他人事感がある気がするけど……)をする努力を続けないといけないと思う。
田淵 @kitsunekirin
『あのこは貴族』山内マリコ (集英社文庫)
『「フクシマ」論』の箸休めに読み始めたら読了。映画を詳細には覚えていないんだけど、「映画版、すっごく良かったんだなあ……」としみじみ思った。原作がよくないという意味ではなくて、映画の方の、あの、華子と美紀の距離感。あそこで「とどめた」のはかなり……英断だったんじゃないかな。
『「フクシマ」論 原子力ムラなぜ生まれたのか 』開沼(かいぬま)博 青土社
序章と第二章まで読み終わった。第一章はひとまず飛ばしています。最後まで読んだらまた戻ってくるとは思うけど……。
『あのこは貴族』山内マリコ (集英社文庫)
昨日から読んでる。
『マジカルグランマ』柚木麻子 (朝日文庫)
『窓ぎわのトットちゃん』黒柳徹子 (講談社 青い鳥文庫)
読了。
映画を観たので原作も。当たり前と言っちゃそうなのだけど、映画は泰明ちゃんを抜擢した上でうまい感じに「物語」にしてあるんだなあ、という感想。映画の方で絶賛されている裏路地を走るシーン(は当然そうだとは思っていたけど)や、あとはお腹がすいたと泣くシーン、どんどんひもじくなっていく描写などが映画オリジナルのものだと知って、なるほど「反戦」の意図を込めた作品だったのか……。となりました。じゃあなんで「マサオちゃーん」の章は入れなかったのかな……とか思ってしまいますが。
小林先生の、いわば「子どもの自尊心と個としての在り方を守る」という教育に胸が熱くなる。あとがきが、
「一九八一年。――中学の卒業式に、先生に暴力をふるう子がいるといけない、ということで、警察官が学校に入る、というニュースのあった日。」で締めくくられているのがせつない。
『三の隣は五号室』長嶋有 (中公文庫)
読了。
この作品も「空気感が素晴らしい」という感想です。淡々とした、物語的な起伏に乏しいページが続いていくのだけど、時折ハッと時が止まるような感覚に陥る段落や、何もすごいことは起こっていないのに地面から数センチ浮いたような錯覚に陥る段落、登場人物にカッとスポットライトが当たり、その周囲が劇のように真っ暗になったように「見える」段落がある。
「共通のモノ」を中心に据えた群像劇は数多くあるけれど、動かないアパートの一室をそれに充てることで「流れる時」を強く意識させられるし、その一室が少しづつ変化していくさまに、登場人物たちには知る由もない「他者の気配」をいわゆる神の視点で知ることになる。そして、自分もこの本の登場人物になれるのだ、既にそうなのだ、ということに気づきます。
『三の隣は五号室』長嶋有 (中公文庫)
『クルド人を知るための55章』山口 昭彦 編著 (明石書店)
https://www.akashi.co.jp/book/b431767.html
漫画『雨がしないこと』オカヤイヅミ (ビームコミックス/角川)
https://comicbeam.com/product/322308000879.html
群像劇にあんま惹かれないのだけども面白く読みました。主人公の「雨」が、セクシュアリティ含めでなんとなく「浮世離れした」「包容力のある」「不思議な」「便利な」役割与えられてないですかな〜という気がややして、ふーんというジト目な気持ちもありつつ読み進める。最終的には「ああちゃんと人間だ」となったのでまあよし。ごはんがおいしそう。
『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー Azar Nafisi 著、市川恵里 訳 (白水社)
読了。
とてもよかった。数年前に手に取りかけてやめてしまったんだけど、もっと早く読めばよかったなあ、と思う。でも、正直この本を「退屈だ」と思う時期があったかもしれない。大事に大事に読んだ。「テヘランで」「ロリータを」という意味を、読みながら何度か静かに思った。
私は本の「解説」とか「訳者あとがき」が大好きで、それは同じものを見ているにもかかわらず私には見えない世界を、愛をもって語ってくれることにすごくわくわくするからなんだけど、この本にも似た感覚があった。イランのこと、イランで女性が生きること、その女性も生まれた世代によってなすすべのない差異と喪失があること。何度も映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』が頭をよぎる。あの映画は2000~2001年に起きた事件が下敷きになっていた。そういうことももちろん、唇を噛み締めながら読んだけれど、この本にあふれる、「小説」に対する身を乗り出すような愛情! 著者にとって小説は生きることと分かちがたくある存在なのだろうなと思う。そしてその表現に想起されるような「重い」イメージとはまた全く異なる、「私はこれが好き、ねえ聞いて」というパワーがある。それに力をもらった。
『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー Azar Nafisi 著、市川恵里 訳 (白水社)
『飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー作、池田香代子訳 (岩波少年文庫)
読了。とてもよかった!
https://post.news/@/kitsunekirin/2aOkCXN7vy19IW3m0tmKPagm7Lg
『飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー作、池田香代子訳 (岩波少年文庫)
ごった煮アカウント。漫画と文章と食べ物が好きです。2016年のアニメYOIをひたすら噛み締めています。たまに粉を焼く。人種、ルーツ、外見、障がい、ジェンダー、セクシュアリティ、トランス差別に反対。
最近ちらほらフォローしてくださる方、こっちはほぼ動かしていないサブアカになりますのでご留意ください。
大体こっちにいます→ @kitsunekirin