新しいものを表示

手動クロスポスト。今日はコンビニで昼食を調達することになった。「そういえばTwitter(現X)で某さんがセブンイレブンのなんかがおいしいと言っていたなあ」と、そのなんかを買おうとしたが、「なんかってなんだったっけ」状態でわからずじまいだった。再チャレンジしたいけれども、なにせコンビニだから次にその機会があったときにまだ置いているかどうか。

アニメ化などに際してよく目にする「原作に敬意や愛情を」という物言いは、「既読者が大事にしてきた原作への思い入れに敬意を払ってほしい」である場合もあるのとちがうかな、ということを前々から考えている。
受け手からは翻案の手法にトレースが重要視されるのは、原作の筋立てなり意匠なりへの「思い入れ」からくるのでは。

X(旧ツイッター)が140文字に満たない字数でも折りたたむようになってしまった。いままで行われた変更の中でも最大級に使いづらい。

マッドハウス版も「いやどうなんだこれ」てなところはある(古いアニメだからではなく1999年に視聴した当時からそう感じた)。原作やオレンジ版と比較すると、マッドハウス版はまだしもちゃんとしていたのでは……と四半世紀経って見方が変わった。

原作及びマッドハウス版の「ヴァッシュに最高の苦しみを与える」はかなりフワフワした動機だ。おそらくそのため原作はのちに放棄したが、マッドハウス版は「楽しかったかい? 人間として生きて」がこれを回収していたのではと今になって思う。人間として生きる。つまり欲望にまみれた者たちの中で生きるというのは、彼らに何度も傷つけられ、助けられず、ときには自分自身も彼らへ銃口を向けることをも含むのだろう。それでもヴァッシュは「ああ、最高だったとも」と胸を張る。

「なぜこうも簡単に相手を殺せるのか。相手のことをあまりに知らないからだ」とヴァッシュは述べる。だからこそ理解しようともせずにレガートを撃ってしまうという展開(あるいは逆に理解したうえで撃つことを選ばざるを得ない、でもいい)が活きてくる。しかしながら中心に据えられているのは「友達が命を懸けて成したことを無にしないために撃った苦しみと傷」のみであって、この点でもレガートは顧みられていない。

ヴァッシュまわりの人間関係をこう配置できるなら、「ヴァッシュは/ウルフウッドは相手を理解しようとしたが、できなかった」としてみるのはどうだ(とうとは)。
QT: fedibird.com/@kisadalog/111194
[参照]

kisadalog  
レガートはヴァッシュを理解できたがヴァッシュはレガートのことを理解できなかった(しようともしなかった)、ヴァッシュはナイブズを理解していたがそれでも我を通しきった、とかのほうはストーリーやテーマに嵌りこんでいるのに、ウルフウッドのほうはこの観点からすると浮いてるように見えるんだよな。

わたしがウルフウッドとヴァッシュの間柄(とりわけ原作の)にピンとこない理由は、ウルフウッドが爆速で絆されてて緊張感がないのと、ストーリーやテーマから浮いてしまっているからなんじゃなかろか、と思った。マッドハウス版の描写にもそんなに関心があるわけではないが、あちらは少なくともストーリーで活きた描写にはなっている。

夢の話。全然知らない人が書いたサルア君のファンフィクションが投稿されており、「やった! とりあえずタブ開いておいてあとで読も〜。楽しみだなあ」とかいってたら案の定読まないまま目が覚めた。なぜ読まなかったんだというか、読んでいたとしてもわたしの脳が生産した夢なんだからどっちみちわたしが書いてることになるのではというか。

同じオレンジ制作の「宝石の国」で「人の役に立ちたい!」と言っていたフォスフォフィライト(声:黒沢ともよ)が原作でああなったのを考えると、「人間の役に立てる?」と聞かれるSTAMPEDE版のヴァッシュは完結編でどういうことになるんだろうね。あまり関心は持てないが……。

オレンジ版は「地獄に不時着した者たちによる贖罪の物語」てなキャッチコピーもあったが、画面に映るのが「地獄に不時着させられた子供」なために罪を犯した主体は遠景化されており、「贖罪どこいった」感がある。

レガートはヴァッシュを理解できたがヴァッシュはレガートのことを理解できなかった(しようともしなかった)、ヴァッシュはナイブズを理解していたがそれでも我を通しきった、とかのほうはストーリーやテーマに嵌りこんでいるのに、ウルフウッドのほうはこの観点からすると浮いてるように見えるんだよな。

他者に受け入れてほしいと望みつつ他者を拒む様はキャラクターのドラマを描けるはずだが、ページに出てくるのは「対照的でありながら同類である男二人が深い友情で結ばれました。よかったね!」なので、まあ自己憐憫への埋没というかなんというか……。

スレッドを表示

追記。ウルフウッドもヴァッシュも、「自分は化け物だ」と語っている。これは文字通りの意味(改造人間とかプラントとか)もありつつ、彼らが殺人という罪を侵してしまい苦しんでいることを示すものだ。しかし化け物ではない「普通の人間」が作中どう描かれているかといえばご覧の通りである。
ではもうひとつの意味、「人間ではない存在」を取ると、「受け入れてほしい相手に受け入れてもらえない怖れ」を見出すことができる。だから二人とも気さくな態度を取りつつ他人と関わろうとしない。孤児院のみんなはおかえりなさいと言うし、隠れ里や保険屋コンビなど関わろうとする人間はいるのだが。
つまりこの二人をもし「普通の人間を軸に対になっている」と読むなら、それは実際に生きる人々ではない、概念としての存在(罪を侵さず、他者を受け入れる)なのだろう。

スレッドを表示

ウルフウッドを「普通の人間より早死にする」、ヴァッシュを「普通の人間より長く生きる」と対比しようとした場合、軸というか基準となるべき「普通の人間」がいかなるものか。そこらへんがぼんやりしているので対比にしてもうまくいっていないと感じる。
というか、ワムズもいるのに人間を「標準」にしようとするのがなかなかズレてしまうんだよなこの話。

人気キャラクターの設定(背景)を組みこもうとした結果、機能不全を起こしたり別のキャラクターに皺寄せがいくのは2001年版009でも見た光景。

トニスもロロもヴァッシュも、みんなウルフウッドのせいであんなに悲惨な目に……(やめろ)

オレンジ版はウルフウッドの設定をちゃんとストーリーに組み込んでおり、機能不全を起こしている原作をブラッシュアップしていると思う。ただし、「少年がむごい目に遭う」モチーフにしかなっていないので、「弱い存在が過酷な目にあわされるのを単に情緒的なものとして描いて終わるの?それって陳腐では?」という感想になる。

原作におけるウルフウッドの設定変更は、「昔の知り合いに気づいてもらえない/顔向けできない」、「人間より寿命の長いヴァッシュと、人間より寿命の短いウルフウッドの対比」という意図があるんじゃないかと思う。ただ、どちらもあまり機能しておらず、変更に意味はあったんか?といまだに首をひねる羽目になっている。
唯一機能しているといえるのは孤児院の子どもたちの紙吹雪で、これはじかに「ニコ兄」を知ってる人間でないとできないところ。

わたしは、「買って応援」のたぐいには「消費者が購入して利益が上がるのは小売であって生産者/製造元ではないのでは」と考えており、購入という行為と生産者とに直接的な関係はあまり見出だせない(「ヒット」することで製造元のモチベーションになるなど、「応援」の効果はあるかもしれない)。
のだが、ウルフウッドのフィギュアがグッドスマイルカンパニーから出ることを知った際は、「原作者が暇……のフォロワーなうえ、陰謀論と排外主義の温床である4chanに出資してたメーカーの商品は買いたくないな」と感じた。仮に購入したとして、そのお金が直接それ方面へ流れるわけではないとわかってはいるんだけれども。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。