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文字通り、サルアがオーフェンとサシでないと本心を明らかにしないのが本当だった場合、あんたなんでそんなことになってんのとまじで思う。たぶん、初期は「帆走」みたいなこと繰り返してたんじゃないか。いや本当になんなんだよまじで。

「メッチェンの腕も治せる」を、なかなかいいボールを投げてくると感じたということは、仮にオレイルや兄を例に出されていたらサルアは動揺しなかったんだろう(オーフェンはサルアの兄が死んだことどころか、そもそも兄の存在すら知らなかったろうが)。
なぜ「腕を治せる」なら怯んだのか? 死者の蘇生よりも傷の治療のほうが想像しやすいから、のほかになにかあるだろうか。そこにこそ、メッチェンが俎上に載せられた意味があるのではないだろうか。

「なんでオーフェンさんは自分とサシならサルアは本音を話すと確信してるんですか???」とこの十年頭を悩ませていたんですが、霧が晴れたようだ。あと、わたしは「サルアはああ答えたがために、特にオーフェンの前ではどんどん本音を口に出せなくなっていったんじゃないか」と思っており、それだと余人がいれば云々と矛盾するよなあと気になっていた。こういう理路ならどうだ(どうとは)。

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目をそらしている、というか「実際に発せられる言葉としてのセリフでも、内心の発露である地の文でも、明らかにはしないように自制心をはたらかせている」としたほうがよいな。

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「開戦」でオーフェンは脅しながらヴァンパイアを叩きのめすが、そのセリフはどこか自分自身に言い聞かせる雰囲気が漂い、本当にはやらないんじゃないかこの人と思わせる。「鋏」の葬儀のシーンも、オーフェンは自分自身の思考や感情から目をそらしながら話している(モノローグさえも)様子で、本音は明らかにしてこない。……「余人がいればサルアは本音を話さないだろう。それがクリーオウであってもだ」とは、オーフェンこそクリーオウがあの場にいたら言えない話をしたかった、ということなんとちがうか。

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あー、書きながら「つまりメッチェンを軸にしてアザリーとクリーオウが対比されてないか?」と思ったけど、終端の場合は「召喚機を動かすリソースとなることを選んだアザリーの意思を損なうことになる」という話をやってるのかこれ。じゃあ鋏のクリーオウは? 見える部分では仮にクリーオウが暗殺されてもオーフェンは復讐しない、と書かれてるように見えるけれどもそれ以外になにが書かれているか。

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「やりなおせる、なかったことにできるという誘惑を否定してくれ」という告白にサルアは「それは一線を越えた話だ」と返した。オーフェンは重ねて「メッチェンの負傷もなかったことにできる」と言った……、という話であり、筋としては自然なものだ。なんでだ? と考えるほうが筋の通っていない話にみえるかもしれない。が、それでも「なかったことにしてはいけないということ、他者の誇りを奪ってはならないということ」の話になぜ女の肢体/死体が俎上に載せられねばならなかったのか、その意味はなにか、を考えたいわけでありまして。

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サルア君と主人公氏が、なあなあで友達やらずに対立する間柄であることを「選んだ」の、よかったな。
しかしなんでこの二人の間にメッチェンが挟まらなくてはならなかったんだろうな。詮無いことだがいまだに考えてしまう。いやサルア君はいかにも男社会に生きる人間だからいいとして、カード最初に切ったのは主人公のほうから、というのが不思議といえば不思議で。

プロジェクトXがまた始まると聞き、真面目に見ていたどころか感動さえしていた高校生のころの記憶がよみがえって大ダメージを受けた。
友人のおかげで、高校のうちに番組に乗せられている(というか、乗りたがっていたのだが)ことに気がつけてよかった。友人ありがとう。

手動クロスポスト。Xからスマートフォンによくわからない通知がきていた。ウェブサイトからスマートフォンに通知が届くことってあるか?(わたしはアプリを使っていない)
タップしたら音量の設定が表示された。なんなんだこれ。

あー、でも1から作ったストーリーだとサルア君出ないな……。

完全に止まっていた感想文を書き進めないと、とファイルを開いてみても、ほぼ2ヶ月ほったらかしにしていたから当時の感情を忘れている。どうしたものか。
そんで、スタジオディーン版というか「新しいオーフェンのアニメ」に何を求めていたのか、何を見たかったんだろうな。上手にトレースしたやつか、アレンジ強めでがらっと変えたやつか、適度に省略した無難なやつか、原作関係ないアニメ独自のオリジナルストーリーとか?

サルアが出てきて動いてしゃべる、という点はわたし個人にものすごく重要な意義はあったけれども、登場が作品になにがしかの意義をもたらしたかというと、「いやあ、さすがにそこまでは」となる。

スタジオディーン版に対するわたしの評価は、「特に1期、2期の出来はきわめて悪く作品独自の魅力を構築するのにも失敗している。3期、4期は驚くほど改善されたし好感の持てるポイントもなくはない。それでも振り返るに総じて好意的な感情は持てない」なんだが、傍から「原作に熱烈な思い入れのある人間」に見えるような人間がそれを言うと「めちゃくちゃ嫌っている」と受け取られかねないよなー、と勝手に心配になる。

仮に23.5インチの安物モニタではなくテレビ画面でスタジオディーン版を視聴していたら、画面作りのあらさが目について作品への評価がもう少し低くなっていたかもしれんよな。

SNSにおける「できの良さ」は、「情緒をたくみに喚起する」意味合いで用いられているパターンが圧倒的に多くないか、という気がしている。それじたいはもちろん有効な指標ではあるにせよ、情緒に酔って足元を見失わせる鑑賞態度なんじゃないか……てなことを最近考える。

同じ二十数分×12話×四シーズンという時間を使うなら、出来合い素晴らしい作品を見るのに使ったほうが有意義なのは間違いなかったし、別に見なくてもよかった。でもわたしは、スタジオディーン版を視聴せず時間を有効活用できるほど規律の行き届いた人間でもなかった。そういうことなのだろう。

スタジオディーン版オーフェンの、3期だか4期だかのOPに「目をそらすな」という一節があったそうだ(わたしはアニメを見る際はだいたいOPを飛ばすのでよく覚えていない)。ために、「(このアニメの出来の悪さから)目をそらすな」という用法がSNSではちらほらと見受けられた。
わたしがなんで視聴を継続できたかといえば、目をそらさなかったからでは無論なく、不出来だったからこそ、というのが一番大きい。スットコドッコイであるがゆえに、気合もいらず義務感もなく軽い気持ちで視聴できた。まあスットコドッコイでも3期や4期はかなりマシにはなっていたのだが。
仮にネット配信がなく、テレビ画面で視聴しなければならなかったら、それで「あー、別にいいや。おもろないし」とやめていた可能性は十分ある。

「Aはたしかに批判されるべきだ。しかし、かくかくしかじかという攻撃はさすがにやりすぎ」という反応が出るとき、一線はとうの昔に越えられているのでは、てなことを思いついた。

禁止が発表された中であってもデモは実施されたそうで。にしても、反ユダヤ主義的行動を取り締まると表明するのと同時にパレスチナ支持の集会を禁じるというのがな……。
「フランス、パレスチナ支持のデモを全面禁止」
cnn.co.jp/world/35210220.html

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