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しかし何でこの手の「名言」は自己責任を説きがちなんだろうね。さっきも書いたとおり自己責任を説くってのは「(その理由、その人の内外の要因を、時にはそれを説く人間ができる人間なのかすらガン無視して)できない人間はグズだ」と言うのとイコールになるときがあるもんだからなぁ。

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ルパン三世の峰不二子が「つまずいたのは誰かのせいかもしれないけど、立ち上がらないのは誰のせいでもない。自分のせい。文句を言ってる間にどんどん追い越されていくぞ」という「名言」を言った(ことになってる)、というのを知って、クレヨンしんちゃんのとーちゃんこと野原ひろしが「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」という「名言」を言ったことにされてる(が、言ってない)のを思い出した。
この二つの「名言」に共通するのは、自己責任を説いているところだろう。これらの「名言」が言いたいことを裏返すと、自分の心や行動次第で何とでもできるのに、それをしないのはただのグズだ、ということだ。
しかし実際は、立ち上がれないのにも自分の中や外の理由があったりするし、何かから逃げないという選択を取り続けることで、自他を毀損したり、人をだまくらかすような輩に利用されてしまうこともあろう。立ち上がれなければ休めばいいし、一旦逃げた上で立て直すのも一つのやり方だ。人間の99%がグズであるとするならば、グズはグズなりのやり方で生きていければそれでよいのだ。

幼稚園バスに手を振ると園児全員が熱狂しはじめ、支配者の気分を味わえる

五味太郎、やっぱいいわ。一回でいいからこの人の子どもしてみたかった。

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今年もサンタに悩む親たちへ 五味太郎さん「ガキには余計なお世話」
田渕紫織 松本千聖
2021/12/5 15:00 朝日新聞有料
digital.asahi.com/articles/ASP
#五味太郎語録

まあ、オタクなんて「オレのかんがえたさいきょうの○○」みたいなの好きな軍師気取りなとこあるしなぁ(無論おれ含む)。結局「これならどうだ」つって出してくるのが例えると「PS1くらいまでわりと見た、よくわからないメーカが作った有名ゲームの二番煎じゲーム」みたいなやつなのよな。外野にいる大抵の凡人(ひつこいがおれ含む)の限界なんてそんなもんさねぇ…泣けてくるわ。

それはそれとして、ダメなオタクは『○○な理由でヒットした』という言葉を見ると『○○があれば絶対にヒットする』と思い込む、箸にも棒にもかからない二番煎じ作品メーカーみたいな考えを抱きがちなように思える

2024年に公開された全世界全ての映画のなかで第7位の興業収入を記録したのが大ヒットじゃないならなんなんだろうね?
x.com/gannbattemasenn/status/1

SEEDは女性人気の高い作品だから、20年経って社会の荒波に揉まれたかつての女性ファンに引き続き見てもらうためにも、ラクスの自立を描くことは避けては通れなかったのだろうな、と思ってる。

こんなことを言ってるヤツの中に『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』には明らかなフェミニズムが表現されていたことに気づいている人間はどれくらいいるかな。

札幌はもう気温が20度台半ばくらいには収まってきてるけど(いや、ゆうて25度は夏日だけども)、内地が軒並み30度超えとか何なん…

もちろん上記の項目は有機的に繋がりあっているから、差別する人をこらしめて改心させれば人権侵害で苦しむ人は減るだろう。しかし、それはほとんどファンタジーの世界であり、現実はそうスムーズに行かない。"敵"との激しい闘いは終わるところを知らない。
一方で、いつしかユーザー同士が支えあったり、過ちをおかした人の反省と成長を妨げる態度をいさめることは、党派性やトーンポリシングとして一部の反差別派から激しい糾弾を受けるようになった。
結果として、たった一人で敵と戦い続けることだけが差別への抵抗であるような誤認が広がった。そんな渇ききった戦場のような場所で研ぎ澄まされたものが、本当に誰かを助けるだろうか?(いや、助けない)
助けないだけなら時間の浪費で済むが、実際には研ぎ澄ます過程で多くの人が傷を追い、そのほとんどはそもそも弱い立場の人で、またその傷を手当てするのも弱い立場の人たちであった。
人権侵害をなくすために戦場で戦わなければいけない時はあるだろう。非情な選択が必要なときもあるだろう。でも、まずは戦場を作ることそれ自体を断固拒否しなければいけないと私は思う。正しくあろうとする人が死のリスクにさらされるような戦場であるなら、なおのことだ。

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一口に差別反対といっても、そこには複数の要素がある。
差別は間違っているから正したい
差別する人をこらしめたい
差別する人に改心してほしい
人権侵害で苦しむ人を減らしたい
etc...
一人の中にある「差別反対」の気持ちは、ときにバランスを変えながら複数の要素が混在している。

それぞれの人物(ユーザー)が物理的に会うことなく言葉だけでやりとりするSNSの世界は、被害者にコミットして精神的・経済的な支援を行ったり、当事者が集まって安全な場所を作ったりするより、差別する人へのコミットが常に圧倒的な多数を占める。いつのまにかユーザーは"敵を倒す"ことだけが差別反対の実践だと錯覚し、またTwitterのシステムは"敵との対立"を加速するものになっていった。

精神が不調になればなるほどマストドンに移したはずの軸足がツイッターに戻ってゆく。長文を読んだり何かを書いたりする能力が精神的不調の中だとあからさまに衰えて、なんかないかなー、とタイムラインを眺めて、数秒ごとに沸いてくるだれかのツイートを、何らかの刺激を求めてひたすらスワイプし続けるんだよな。
ツイッターのタイムラインを2時間くらい眺めてる人は、精神的不調をかかえてるかもしれないので、ツイッターから離れた方がいいのかもしれない。

なんか急に腹が立ってきたし、同時に絶望も襲ってきたな。

己の無責任が他者にリスクを背負わせることになる、という可能性を考えてほしい。それはなかなかに予想はできないことだろうけど、だからこそ指摘を受けたら拒絶すべきではない。誠実に生きようとすればするほど苦しむことになる構造を打破しなきゃいけないのだから、自らその構造内での強者としての振る舞いに無自覚に浸り続けてはならないはず。

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一度でもミスったら永遠にパージしろ、みたいなことはすべきじゃないから絶対にやらないし、だからこそ「ごめん!間違えました!今後気をつけます!」とやってくれさえすれば(本屋としては)それを信じて本を置くことができるようになる。正直なことを言えば、このようなある種の「内輪揉め(という表現は被害者側からすれば完全に不当だが)」が起きるたびに、反差別をポリシーとする本屋は精神的に引き裂かれ、そして売上が落ちていく。なんらかの意見を発しなければポリシーに反するし、意見を発しても発しなくても売上は落ちる。この引き裂かれと売上低下は本屋に限った話ではないけど。

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本屋としてこれは言っておきますけど、李氏の本に肯定的な在り方で登場させられている方々や、本書のPRなどに関わっている方々に関しては、現状では「疑ってかかる」ほかない状況なので、このままなにも発信がない場合、今後本屋lighthouseとして肯定的に取り上げることが難しいです。これは本当に苦しいことですし、「登場させられている」方々に関してはむしろ巻き込まれ事故のようなものでもあるので、マジでなにしてくれとんねんな話かもしれないのですが。

公の場でなにかを表明することの困難性は誰もが持っているし、そうすることを強制するのもまた暴力的だと思うので、なおさらこの問題は残酷なんですよね。無反応なら作家の意見に肯定的だと判断されざるを得ず、批判的な反応をするのもリスクがある。実在人物を作中に登場させることの難しさを、おそらく理解しようともしないまま突き進んでしまったであろう作家と出版社の責任は大きいです。

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