もちろん上記の項目は有機的に繋がりあっているから、差別する人をこらしめて改心させれば人権侵害で苦しむ人は減るだろう。しかし、それはほとんどファンタジーの世界であり、現実はそうスムーズに行かない。"敵"との激しい闘いは終わるところを知らない。
一方で、いつしかユーザー同士が支えあったり、過ちをおかした人の反省と成長を妨げる態度をいさめることは、党派性やトーンポリシングとして一部の反差別派から激しい糾弾を受けるようになった。
結果として、たった一人で敵と戦い続けることだけが差別への抵抗であるような誤認が広がった。そんな渇ききった戦場のような場所で研ぎ澄まされたものが、本当に誰かを助けるだろうか?(いや、助けない)
助けないだけなら時間の浪費で済むが、実際には研ぎ澄ます過程で多くの人が傷を追い、そのほとんどはそもそも弱い立場の人で、またその傷を手当てするのも弱い立場の人たちであった。
人権侵害をなくすために戦場で戦わなければいけない時はあるだろう。非情な選択が必要なときもあるだろう。でも、まずは戦場を作ることそれ自体を断固拒否しなければいけないと私は思う。正しくあろうとする人が死のリスクにさらされるような戦場であるなら、なおのことだ。