一口に差別反対といっても、そこには複数の要素がある。
差別は間違っているから正したい
差別する人をこらしめたい
差別する人に改心してほしい
人権侵害で苦しむ人を減らしたい
etc...
一人の中にある「差別反対」の気持ちは、ときにバランスを変えながら複数の要素が混在している。
それぞれの人物(ユーザー)が物理的に会うことなく言葉だけでやりとりするSNSの世界は、被害者にコミットして精神的・経済的な支援を行ったり、当事者が集まって安全な場所を作ったりするより、差別する人へのコミットが常に圧倒的な多数を占める。いつのまにかユーザーは"敵を倒す"ことだけが差別反対の実践だと錯覚し、またTwitterのシステムは"敵との対立"を加速するものになっていった。
もちろん上記の項目は有機的に繋がりあっているから、差別する人をこらしめて改心させれば人権侵害で苦しむ人は減るだろう。しかし、それはほとんどファンタジーの世界であり、現実はそうスムーズに行かない。"敵"との激しい闘いは終わるところを知らない。
一方で、いつしかユーザー同士が支えあったり、過ちをおかした人の反省と成長を妨げる態度をいさめることは、党派性やトーンポリシングとして一部の反差別派から激しい糾弾を受けるようになった。
結果として、たった一人で敵と戦い続けることだけが差別への抵抗であるような誤認が広がった。そんな渇ききった戦場のような場所で研ぎ澄まされたものが、本当に誰かを助けるだろうか?(いや、助けない)
助けないだけなら時間の浪費で済むが、実際には研ぎ澄ます過程で多くの人が傷を追い、そのほとんどはそもそも弱い立場の人で、またその傷を手当てするのも弱い立場の人たちであった。
人権侵害をなくすために戦場で戦わなければいけない時はあるだろう。非情な選択が必要なときもあるだろう。でも、まずは戦場を作ることそれ自体を断固拒否しなければいけないと私は思う。正しくあろうとする人が死のリスクにさらされるような戦場であるなら、なおのことだ。