特に二点。
(1)回想について。
ベンヤミンは過去を象徴化するような物語的回想を退け、「繰り返し同一の事態に立ち戻」りつつ、そのつど異なる地点を掘り起こすような回想でなければならないと構想したという。
著者によれば、彼がこうした考えをもった背景には、親友の自殺という青年時代の出来事が影響していた。親友をいかに生涯忘れずに悼みつづけるか、という問題を前にしたとき、その親友の一生を物語化し、それを一言一句暗記するというのは、ベンヤミンにとって本当の意味で「忘れずに悼みつづける」ことではなかったのだろう。そうではなく、そのつどはじめから思い出し、忘れていることはないか――そういえばあのときこういうふうにも遊んだ、ああいうことを言っていた、みたいに――注意深く回想すること、そしてこれを繰り返しつづけること。これこそが、彼にとって真の意味での哀悼だったのだろう。こうした考えは『歴史の概念について』にも通じている発想であり、そちらの理解も深まった気がした。
田邉恵子『一冊の、ささやかな、本:ヴァルター・ベンヤミン『一九〇〇年ごろのベルリンの幼年時代』研究』(みすず書房)
著者の博士論文に加筆修正を施して書籍化したもの。ドイツで編集・出版が進行しているベンヤミンの新批判版全集を活用し、『幼年時代』の習作版手稿、関連メモ、書簡などを参照しながら、『幼年時代』が完成稿へといたるプロセス、およびベンヤミンの思想の変遷を丹念にたどっている。
忘れてしまったもの、それも時間の流れという不可避の力によって忘却に追いやられてしまったものが、一人ひとりにあるのだということを読者に気づかせたい――ベンヤミンの子供時代を回想した作品でありながら、ベンヤミンの個人情報は徹底的にそぎ落とされているという特異な作品形式が採られたのには、そういう祈りが込められていたからだというのがよくわかった。この祈りが読者に届けられることこそが、あの時代に故郷を逐われた人々にとっての慰めであったということなのだろう。
〈その踝から濡れてゆけ 一行の詩歌のために現(うつ)し世はある〉(笹原玉子)
かっこいい。後押しをしているようにも読める。でもよく考えると、なぜ「濡れる」という表現を取るのか。境い目のようなところに立っていて、そこから水のある方へ一歩を踏み出すようなイメージが湧くが、そのイメージで何を表現しているのだろうか。
とか思って検索して調べてみたら、この歌は作者の歌集の冒頭に置かれた歌で、信条表明のようなものであり、作風的に情景をあまり深く考えなくともよい?みたい。
http://petalismos.net/tanka/tanka-backnumber/tanka154.html
底本になっている最終版原稿は旧来の定本とはかなり変わっていて、とくに分量が大幅に削減されている。そこまでやるからには当然、著者のなかになにかしら決心があって、本腰を据えて改稿を施したということのはずだろう。
それなのに、そういう改変をなかったかのようにしてしまうような翻訳方針はどうかと思う。訳者は旧来の定本が好みだったようだが、それはそれで一見識なのだから、堂々と旧来の定本を底本にすればいいではないか。こういう翻訳方針は、底本にした最終原稿にも著者にも、ぜんぜん誠実な態度ではない(翻訳上の忠実とはまったく別次元の問題)。
他の作品も原稿間の異同を注記しているならまだしも、複製技術時代も歴史の概念もそんなことやってないし、正直訳者の独りよがりにしかなってないと思う。
マストドンで隠れて言ってるけどぉ~。
「ベンヤミンコレクション」3収録の『幼年時代』、よさそうな作品なのに、翻訳にあたって底本と旧稿との異同を[ ]や注釈でこまごま注記していて読みにくく感じてしまうほどに細かい。ここまでやらなくていいと思うのだけど…。やるにしても、注釈を全体の最後に置くとかしてほしかった。
恥ずかしくて晋書の話ができない