底本になっている最終版原稿は旧来の定本とはかなり変わっていて、とくに分量が大幅に削減されている。そこまでやるからには当然、著者のなかになにかしら決心があって、本腰を据えて改稿を施したということのはずだろう。
それなのに、そういう改変をなかったかのようにしてしまうような翻訳方針はどうかと思う。訳者は旧来の定本が好みだったようだが、それはそれで一見識なのだから、堂々と旧来の定本を底本にすればいいではないか。こういう翻訳方針は、底本にした最終原稿にも著者にも、ぜんぜん誠実な態度ではない(翻訳上の忠実とはまったく別次元の問題)。
他の作品も原稿間の異同を注記しているならまだしも、複製技術時代も歴史の概念もそんなことやってないし、正直訳者の独りよがりにしかなってないと思う。
マストドンで隠れて言ってるけどぉ~。