古典和歌では、歌の主体(短歌の中の「私」)≠詠み手と考えたほうがうまくいくことが多かったり。
「歌は解放され読み手に委ねられる」というのはいい表現。こう考えたほうが、文学作品は楽しくなるよ。
華嶠を秘書監に転任させたさいに彼に担当させたという仕事内容がいまいちよく読めないけど、彼が「良史之志」(または「良史之才」)をもっていることなどを評価しての秘書監任命なわけだから、晋史編纂に関する行政関連文書の管理・編集を彼に任せた、という意で読むべきなのかな。
まあ彼がライフワークにしていた後漢史が先に完成してしまい、しかもそれからまもなく彼は没してしまったから、彼に任されていた仕事はじつは晋史の編纂だったんじゃないかというイメージが浮かびにくいだけで。
Wikipediaの短歌のページのこの指摘面白いなー。
平成に入って、正岡子規以来の写生を受け継ぐ『アララギ』の終刊(平成9年(1997年)12月)とアララギ派が分裂した。時を同じくして加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘らニューウェーブと呼ばれるサブカルチャー要素を取り入れた歌人が登場した。『サラダ記念日』(俵万智)で決定的に大衆化した短歌の状況に困惑する旧来の歌人をよそに、イメージと感性で歌い上げる彼らの表現は斬新だった。それまでの短歌は個人的内容であっても、普遍性や生への問いかけがあった。しかし、バブル経済の表層的文化で育った口語性と都会性、脱私性により、前衛短歌以来の近代短歌からの脱出が図られたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E6%AD%8C
特に最後の二文。確かに昨今の短歌は普遍性が足りなくて物足りなく思うことが多いけど、なるほど俵万智以降そうなったというのね。
鵜呑みにはできないけど、大筋としては正しい気がしないでもない。
俵万智×AI短歌 歌人と拓く言葉:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/special/tawaramachi-aitanka/
そういや、AIと短歌はいろんなサービスがあったけどこんなの面白いよね。
実際に試せるからやってみて!
(2)過去の人々の生をどのように描くのか。
『幼年時代』ではなく『ドイツの人々』という別作品について論じられていたことであったが、彼はその作品で、文学者の書簡を用いて文学史を描こうとしたという。書簡は既存の文学史で無視されていた資料で、「取るにたらない事柄」が書かれたものだが、だからこそこれを取りあげて歴史を語り直したのだと。
ベンヤミンの理屈も著者の考察もいささか論理に苦しさを感じたが、歴史叙述のコンセプトはとてもおもしろい内容だった。些末な資料を用いることで読者にマニアックな情報を提供したいのではなく、「大きな流れ」のなかに消えてしまったり無視されたりする些事にフォーカスすることで、忘れられてしまったものへの注意を読者に喚起させようとしたのだと。
恥ずかしくて晋書の話ができない