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「可塑性とは、世界を物理的に破壊するような暴力ではなく、脳が自分自身の脳を破壊するような暴力を受け容れて、それを積極性、能動性に転化できるかどうかにかかかっているのだと思います。その暴力を受け入れ、自らの意志へ組み込むことができるかどうか、新しいシステムとして組成、蘇生できるかどうかが可塑性ということですよね。自分の思い込み、既得の概念を破壊し、修正することは反省や内省からもたらされるとされていますが、けれど反省や内省では自分は破壊されない。力はシステムの外から働きかけるから有効だったわけで。」(岡﨑乾二郎「「感覚のエデン」を求めて」『文藝界』2022年10月号)

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日本文明フォーラムと乃木神社

これは、教授職のコストを三菱グループが寄付している、ということ。

何のことはない、近代日本の植民地責任・侵略行為に深く関与した三菱グループが雇って「従軍慰安婦」否定論を拡散させている構図。

この「日本文明フォーラム」、2022年には「新しい歴史教科書の会」の創立メンバーの「坂本多加雄」記念シンポジウムを、刈部直基調講演、河野有里司会で開催している。

他に参加者は北岡伸一など。
この日本文明フォーラム、極右から右派、例えばサントリー学芸賞グループを広く包摂している。ラムズイヤーもサントリー学芸賞受賞者。

これは、日本の「学界」の多くがグラムシー的に言えば右派に「ヘゲモニー」を掌握されている、ということ。

実際、サントリー財団は1980年代の山崎正和の時代から「粘り強く」塹壕戦を展開して来た。(しかし、佐伯啓思は当然として、斎藤幸平さん、何故メンバーに入っている?)

「日本文明フォーラム」とサントリー学芸賞との関係に見られるように、日本の学界の退廃と倒錯は深刻。(ま、「まともな研究」も時々も受賞はしているけれども)

特に悲惨なのは刈部直、河野有由に代表される日本政治思想史。

特に刈部直はかつては丸山眞男が教えていた講座。

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その上で――

「自然を理解するにはこの思想を転換し、人間は自然の一部で、自然はその「内」から直観的に理解すべきものという発想を広げねばならない(伊東俊太郎『近代科学の源流』)。そこで注目されるのが日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在することだ」。

――とつなぐのである。「日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在する」も、ここで挙げられている伊東俊太郎―梅原猛的な文献群では1970年代から飽きるほど繰り返されてきたことであり、いわゆる「日本文化」に即して斎藤正二や鈴木貞美らの論者が丁寧に批判を加えてきたところである。
例えば斎藤正二は大著『日本的自然観の研究』(八坂書房、1978年)巻頭で、公害による深刻な自然破壊を糾弾し「かなり昔から言い古るされてきた「日本的自然観」なる術語も、まさしく“支配の象徴体系”にほかならなかった」と喝破している。
それに加えて、そもそも「自然との深い関係性の認識が内在する」のは日本だけなのか、ほかにも学ぶべき地域的文化はあるんじゃねえの? なんでよその地域は出てこないのかな?

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「朝起きたら、風向きに関わらず種を蒔きなさい。夜も、翌日の準備を怠ってはならない。なぜなら、実を結ぶの種はあれかこれか、それとも両方なのか、人間には一切分からないからだ。」( コヘレトの言葉 11ー6)

紀元前2~3世紀に現れたコヘレト書は、同時代と思われるダニエル書の黙示的・厭世的なのと対照的に現世的・禁欲的である。

第20回清明高等女学校卒業式宮本先生のことば

「これからあなた達は、様々な道を歩いていくことと思います。いろいろな人と出会うことでしょう。温かい人も、冷たい人も、幸せな人も、淋しい人も、どうしても馬が合わないということもあるかも知れません。」

「ですが、そんな時にはどうか思い出して頂きたいんです。食べなければ人は生きてはいけないんです。あなたと私がどこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです。同じなんです。」(大正12年春)

「私たちのこころの中に、何か異質で強力なものが侵入してきたとしよう。そこで私たちのこころは圧倒され、さまざまな否定的な感情や破壊的な空想が刺激される。そのような時に適切な他者が現れ、自分にとって異質で圧倒する体験の意味するものを告げたとしよう。
もしその解釈が真実であった場合には、私たちが曝されている体験の圧倒する性質が緩和され、その異質な体験への対処法を考えることが可能となる。
その上で、次に同様な体験に曝された時には、それはもはや異質なものではなく、前回以上に落ち着いてその体験の中で考えることができる。このような形で、ビオンは人間の考える能力が発達していくと想定した。」(堀有伸)

「乳幼児に十分な欲求不満への耐性が備わっている場合には,この乳幼児は自らの置かれた苦痛に満ちた状況について現実的に考えることができる。その状況を耐えやすくするような行動を選択しながら,考えることの装置はさらに発達していく。」(堀有伸 精神科医(精神病理学))
コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」 huffingtonpost.jp/arinobu-hori

「精神科医や臨床心理士なども、特に認知行動療法を志向する人はうつ病の患者さんと同じく‥「正しい生き方」「正しい治療」を求める人が結構おり、それがゆえに‥「認知のゆがみ」「偏り」を「修正」して、「正しい」道に患者さんを導こうとする傾向がある‥」

dr-mizutani.jp/dr_blog/depres

「2022年に目に見えるかたちで現われた、こうして人々が暴力に巻き込まれていく趨勢を顧みると、無力感に襲われます。世界が闇に覆われているようにも見えます。しかし、生きるとは、それでも少しずつ歩み続けることでしかありえません。

Chronicle 2022 nobuyukikakigi.wordpress.com/2
@Nobuyuki_Kakigi
より
nobuyukikakigi.wordpress.com
Chronicle 2022

それはいったん立ち止まって、闇を見つめるところから始められる必要があるのではないでしょうか。それによってのみ、自分から力を奪いつつある暴力を見通すことに結びつくはずです。そして、このことは暴力に晒された他者のことを思う余地を、自分のなかに開くはずです。」

想像力だけがこの抑うつを切り拓いてくれる。それは別様の生、私ではない他者の生、そうではなくこうでもあり得たかも知れない、別の可能性の生への見通しを拓いてくれる力だ。時として妄想として働いてしまうような空想力の本当の力は、そんな働きにあるのではないか。

手向くるやむしりがたがりし赤い花(一茶)

「花はこの世にいっぱいに咲き乱れている。「ヒエロファニー」[「聖なるものの顕現」]、感動と畏れに充ちたものたちのひとつだった。日本でも江戸時代まではたとえ幼い子供であっても、花をむしることは止められていた。死んで「あの世」の存在になったときに初めて、花は手向けてもらえるものだった。あんなにむしりたがっていた花だよ。今やっとお前に手向けてあげることができるよ。と、一茶は最愛の娘に話しかけている。」(見田宗介『社会学入門』岩波新書2006年、p.55)

「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」(ゴータ綱領批判)受け取ること、つまりは<交換>を越えて、<贈与>の原理が働くことが必要なのである。

ところでこの<贈与>の原理は、一般に理解されるように一定の生産力の余力が生まれたときに、という保留条件がつくものなのだろうか。

マルクスの考えもあまりはっきりしていないように見えるが、

「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能となっている以上―自然それ自体からの無償の贈与、先行する世代からの無数の贈与、ともに生きている他者たちからの不断の贈与を受けとらずに紡がれてゆく生など、およそありうるでしょか―、贈与の事実そのものについては、その存在を疑う余地がありません。

贈与の原理はたほうまたその困難のゆえに―贈与が純粋な贈与であるかぎり、その存在すら気づかれてはならないのかもしれません―、現在の思考の課題ともなっているところです。」(同p.259)

現実の生はそのように<贈与>なしには成立しないことだけははっきりしている。我々が現在を生きているということはそういうことであり、それがなくなったときには、太陽という根源の贈与者がなくなったときあらゆる生命が存在し得ないように、我々も生きていられないというだけのことだ。

初期マルクスの『経哲草稿』には美しい言葉がちりばめられている。あまりにも美しすぎてマルクスを誤解してしまう言葉でもある。

「問題は、・・ほかでもない「交換」ということばにあります。『草稿』に代表される立場が、やがてマルクス本人によって否定される必要があったのは、この交換という発想自体に、乗り越えられるべき限界があったからではないでしょうか。」(熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』岩波新書2018年,p.249)

マルクスにとっての躓きの石は等価交換という考え方それ自体にあった。各人が能力に応じて働き、働きに応じて受け取るならば、いわば愛をただ愛とだけ等価交換する社会は存続しうるだろうか。少なくとも子供は愛を受ける当然の権利者ではなく、障害者もまた特別な慈悲にすがるしかないかのようだ。

ではいったい何が等価交換の代わりに愛の原理になるのだろう。

より身近なところでは仏教の歴史的展開のなかにもそれは見て取れる。初期仏教は釈迦の悟りが示すように人間の主体的能動的な能力の肯定、自力救済の思想だったが、やがて一世紀前後に成立した大乗仏教では、自力での救済を否定する他力の思想が前面化する。

近代的自我というのは当然のことながら人間の主体的な能力を信じる、いわば自力の世界である。その信念が行き詰まったときこれまた当然のように他力の思想が出てくる。日本の近代において親鸞の「絶対他力」の思想がたびたび呼び出されるのには理由ある

「もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫1964年,p.187)

マルクスのこの表現は、「とりわけある種のひとびとに好まれ、「君は愛をただ愛とだけ」交換できる(so kannst du Liebe nur gegen Liebe austauschen)という言いまわしとならんで、くりかえし言及」されてきた(熊野純彦)。

なるほどロマン主義的で、近代的な自我が好みそうな思考と言うのだろうか、あるいはちょっと見方をかえてみれば「どんなに一生懸命やったって、結果を出さなければ意味がない、結果がすべて」と言い切る社畜の言葉のようにもとれる。

マルクスもつまずく主体による能動性の罠こそは、古来から繰り返されてきた人間の能動的な能力への過信とその限界についての反省、傲慢さから謙虚さへの揺り戻しといった人間の思考方法が持つ一局面なのである。

「[ディープステートの]幼児売春問題は、市場化してはいけないものを市場化しているだろうという主張の、ある種のメタファー[(比喩的表現)]だ。」(宮台真司)

「市場の暴走(マルクス)、官僚制の暴走(M・ヴェーバー)、技術の暴走(後期ハイデガー)という僕たちの社会がいままさに直面しているシステムの暴走は、近代化する社会が生み出した自然過程であり、必然的な現象なのである。」(宮台真司)

「W'が商品資本として機能するために、W'はGに転化する必要がありますが、そのさい当の商品が「消費へと[資本の運動から]最終的に脱落すること」は、「時間的にも空間的にも、まったく分離されている」ことがありえます。
空間的な距たりも、時間的に踏みこえられる必要がありますから、この「時間という差異[Zeitdifferenz]」がW'―Gの過程を攪乱します。――循環が正常におわれるさいに「W’はその価値どおりに、しかものこらず売れなければならない」。
資本は、あまり長く商品資本のままでありつづけるなら使用価値をうしない、かくてまた商品でもなくなってしまいます。」 (熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』岩波新書2018年)

人間の生の営みというのは「時間という差異」をつくりだす運動のことだ。それは資本の運動にとって攪乱的でもあり得る。

「岩井〔克人〕によれば、‥マルクスは「資本論」のなかで交換価値を論じる過程で、自分が提示した労働価値説を消滅させてしまうというのです。」(永田希『書物と貨幣の五千年史』集英社新書2021年、pp.166-167)
マルクスの思考は、決して交換のレベルに止まっていたわけではない。

引用ツイート
山内志朗
@yamauchishiro
·
2021年11月7日
マルクス主義は形而上学としては素晴らしいと思うのだが、経済学としては素人から見てもいいの?と思う。素人の浅はかさだったら、それはそれでありがたいのだが。マルクス主義が経済学として、金融理論として成り立つんだったらそれは最高に至福だと思います。いや、思いたい。

この話は結構面倒な話で「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」から「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というゴータ綱領批判以降のマルクスの思想展開の問題系と密接に結びついている話だ。与那覇の思考は初期マルクスのパラノイア段階の思考と言うことができる。

引用ツイート
gom_nori
@gomnori1
·
2021年11月17日
与那覇は同一労働同一賃金についてよく語っていた。自分のようなエリートが今のような地位に遇されていることによほど耐えられなかったのだろう。彼の発言に感じられるある種の尊大さはそんな事情に由来する。それにしても彼が批判者に対し「警鐘」を打ち鳴らしている図はとても○○とは思えない

「マルクスの思想」とか「マルクス主義」とか言い切ってしまうのも一種の藁人形論法なのだろうなあ。『資本論』はいまだに編纂され続けているし、『ゴータ綱領批判』なんて初期の疎外論とはかけ離れた思考なのに‥‥そういえば丸山眞男なんかも遺稿の段階では新たな思考展開をしているらしいし‥‥

引用ツイート
Shin Hori
@ShinHori1
·
4月21日
完全なフリーランスで時間管理されず成果物を売るだけの立場だったら、賃金労働者ではなく自営業者なので、自分の労働の成果物に見合った対価を得てるから、マルクス主義的に見て搾取はないことになります。
"2000万のサラリーマン"だったらご指摘の通り。 twitter.com/akihiro_koyama…

「〔経済〕成長を取り戻す」という妄想
「マルクスが言うのは‥‥労働者は「商品の買い手」つまり消費者としての役割を期待されているが、彼が賃金として受け取るのは、自らが生産した「付加価値」の一部だけであり、生産された商品の総額に比べればきわめて限定された購買力しかもっていない。
彼は「消費欲望」はもっているのだが、自分の労働力の価格(賃金)は、欲望の対象を買いそろえるには十分ではない。したがって、資本主義的生産様式が支配的になり、人口の大部分が労働者となった社会では、生産力(供給能力)と購買力(有効需要)との落差が「過剰生産」という結果を生む、ということである。
そのような「資本主義社会」で拡大再生産が継続的に行われるのだとしたら「たえず増大する需要は何所から生ずるか?」それがルクセンブルクの疑問だった。しかし『資本論』はそれに答えていない。」(植村邦彦『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性』平凡社2016年、p.23)

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