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投票所入り口に、誰が入場できるかを示した法令が貼ってある。あのような内容の法令ができたのはかつて誰に入れたかを監視したり、指示できたことで生じた不正をなくすためのものでしょう。

学生による授業アンケートも、回答中は教員は席を外さなければならないのが普通だし、紙で配布する場合は学生が回収して事務所に届けるものです。

ネット投票ができないことの理由に、公正さを保つことができないから、というまとめを見た。投票率を上げるためにネットは有用とは思うが、そのために必要な手立てはなかなかに難しいのだろうなと私も思います。

togetter.com/li/2457485

いやあなかなか大激動の夜です。

石破氏が敗戦の将としてどうこの局面を乗り切るかということと、多極化ないし連立的な状況を言葉でどう作り上げていくか。高市氏であっても自民党は票は落としていたはずで、ここまではっきりとでなくても似たような状況を迎えていたでしょう。しかし私が思うのは、高市氏は敗戦の将を全うできないでしょうし、他者と語る言葉を持たない人はその後の世界も前進させられないでしょう、ということ。

石破氏は自民党がきちんと負けるために選ばれた、という見方もできると思います。言葉を大事にする者は短期的には暴力にも権力にも負ける。でも大局的にはそうではない。自民党がいい形で負けることは、言葉によるしなやかでしたたかな社会の回復、良くも悪くも停滞していた日本の前進につながるだろう、とも思うのです。

ドラクエ「性別」廃止で論争に ゲームでも問われる「らしさ」の呪縛:朝日新聞デジタル
asahi.com/articles/ASSBR3G3DSB

タイミング良く記事化されていました。新しいドラクエで価値のアップデートに伴う仕様の変更がなされたことへのさまざまな意見の記事。コメント込みでよい記事だと思いました。

別のインタビューでも堀井雄二が語っているように「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ、ポリコレ)に配慮しすぎて、原作のイメージが壊れる」ということは実際に可能性としてあり得るかも知れないけれど、それは危惧を不当に大きく見ているだけで、実際に作品内に残っている配慮すべき内容は「ポリコレ」に過ぎるというものではないと私は思います。妥当性のレベルでは顧みる必要のない仮定です。たとえば女性キャラの選べる性格に「おとこまさり」ってあるの、ダメでしょ。女性用の防具に「あぶないみずぎ」ってあるの、論外でしょ。そういうのは配慮しすぎじゃないですよ。

そして私もドラクエで育った人間として、それなりのドラクエ愛がある前提でいいますけども、ポリコレに配慮しても本質的な面白さは変わらない。スケベ面白いでしょ、それがドラクエの原作らしさでしょ、という見方が本当に「原作らしさ」ならそんな原作らしさはなくなったほうがいいんですよ。

TeX使いとして、TiKzの日本語教科書出ないかなと思っていたところ。期待が持てる。

『TikZによるLaTeXグラフィックス』Stefan Kottwitz(著)/黒川 利明(訳)、朝倉書店、2024.11(出版予定)
asakura.co.jp/detail.php?book_

これまで自己流でずっとやってきているので、きちんと読んでみたい。

価値観のアップデートがきちんとなされてもエンタメとしての作品の価値が低減しないことは、ネトフリ版シティハンターに明らかだし、大丈夫かと死ぬほど心配だったウイングマンもヤンジャンのリメイク・読み切り版を見る限り大丈夫そうだと期待が持てる。ドラクエ3もあれだけリメイクを繰り返しているのだから、価値観のアップデートは出来るはずだ。ファイナルファンタジーの作り手の方から、ポリコレにめっちゃ気を遣っているし、チェック機構がしっかりしているとも聞いていた。だからドラクエだってやれるはずなのに、そうなっていない。

今後、新作をドメスティックにしか販売しないなら、ガラパゴス日本と共に落陽の一途を辿ればいいという話ではあるが、国際!クールジャパン!とかいうならまずこういうとこだぞと強く思ったことでした。

まあドメスティックだとしても、私は不愉快なんで多分この先は好んではやったりしないでしょう。(2/2)

ドラクエ3が残念な件であります。仲のいい同い年の心理学者がドラクエ3を久しぶりにやってみたというので、私も気の迷いで久しぶりに始めてみて、神龍の前まで来たんですが、娘の名前を付けた主人公・勇者の最強の防具が「神秘のみずぎ」でかなり萎えている…。ファンタジーもので女性キャラの露出が不自然に多い問題が取り沙汰されているのは新しくもない話だが、スイッチ版ドラクエ3は現代にリメイクされた新しい作品だ。娘が主人公という設定ということもあり、すごく見せられない…という気持ちになっている。これに限らずプレイしてみて昭和的なやばさが随所に目立った。

まあすぎやまこういちからして、歴史修正主義的な発言で晩節を汚した人だし、鳥嶋と堀井雄二がポリコレについての情けない発言をしているところからも、もうドラクエは残念な作品になっていたことは、薄々分かっていた。

80年代のあの時代のノリがいつまでも続くと思っている人と、(雑ぱくに言うと)ネトウヨのノリは非常に相性がいい。自分が小さい頃に楽しんだ名作が、当時のクリエイターやその周辺の人たちの鈍感さでもって今の社会に「なつかしの!」みたいな形で持ってこられるのが残念で仕方がない。(1/2)

薬のCMで「のどいた」という略称を持ち出してきた代理店の仕草をみたんですが、無理筋な気もする…「のどのいたみ」からの省略を考えると、コスパに合わなすぎる。すでにある程度定着した言い方に対して2拍しか省略できてない。

臨時的な、あるいは子どもっぽい言い方として「あたまいた」「はいた」「あしいた」と言えなくはないけれど、定着はしてない。それでいてそう発音したくなるような面白さもとりたてて感じられない。これはわざわざ新語として定着させるには無理が…。

旧ジャニタレかどうか知らんが若くて可愛らしい男性だから、しっくりくる言い方を模索したのかな。だとしてもちょっとどうだろうと思います。

いまや大学教育が英語によってなされることの機運が高まっているようだが、国際的な発信とか交流などのメリットとされることがある一方で、知識の民主化という点で日本語が後退するデメリットをどう考えればいいのか、答えを出せずにいる。

日本語で学問をすることの価値が下がれば(すでにジャンルによっては下がっているという見方もある)、初めから外国語で学んだ方がいいとなるのが合理的判断であるが、その結果学問のエリート化、階層の二極化が進むだろう。

インドのように人口が多ければそれでも集団としては発展していけるかもしれないし、ずっと小さい規模ならシンガポールのようにやっていけるかもしれない。さあ日本はどうなる、といったところ。(4/4)

さてこの論文が言いたいのは、日本が翻訳による技術の体系化によって工業製品の製造を爆発的に高め、それが経済的な発展を遂げたとするもの。日本人が技術書を読めたことが大きいとするのですね。ここから先の理屈は経済学なのでよく分からない。しかし、ある集団が技術力を高めるためには知識の民主化が必要で、そのためには日本語で書かれた技術書、その基盤には日本語に翻訳された技術用語がたくさんあったということは間違いがない。

この知識の民主化が日本語によって行われたということは、重要なポイントだと思う。かつて水村美苗が『日本語が滅びるとき』で書いたように、近代的な日本は近代的な日本語を構築することによって得られたという見通しは大筋として正しいと思う。(3/4)

論文そのものは次のリンクに。
"Codification, Technology Absorption, and the Globalization of the Industrial Revolution",Réka Juhász, Shogo Sakabe & David Weinstein,National Bureau of Economic Research, 2024
nber.org/papers/w32667

曰く、スクレイピングによって図書館から図書データを入手して比較すると、1870年に存在していた技術書の84%が英・仏・独・伊語で占められていたところ、1910年では66%となって代わりに日本語が19%を占めるようになると。これはもちろん翻訳によるもので、Figure6を見ればその突出は明らか。これを語数の増加で見たのがFigure7。我らが『日本国語大辞典』(第2版)の初出例から年代を割り出している(どうやってデータを作ったんだろう)。これは日本語学者の仕事として見たかった…(2/4)

日本が江戸時代を終わらせたとき速やかに国際的な水準での近代化を果たせたのは、先進的な国々の技術体系を構成する術語を日本語に翻訳したためである、と言われている。私も授業などで、たとえば「引力」がオランダ語Aantrekking+kracht の訳語である、といったことは紹介する。

このたび経済学の論文で、技術書の翻訳による辞書と語彙の増加と経済発展とをデータから裏づけた論文が現れた、ということをTogetterで知った。これは非常に面白い。
togetter.com/li/2450767

(1/4)

私が専門としている日本語学というジャンルは、言葉そのものを独立した対象として観察するという手法が主流です。しかし言葉は常にそれを使う人や社会、文化、アイデンティティと密接に関わるので、言葉を独立して論じることに批判もないわけではありません。そうした立場によるひとつの学問のあり方に、社会に積極的に関わろうとしたり、さらには社会を変える運動を内包するものがあります。それは学問的ではないと言われることもあるけれど、そのような動的な要素も学問の一部と積極的に認める考え方もあると思います。

こと「言葉とジェンダー」といった問題系の場合は、言葉に性差が反映されるといったスタティックな分析だけではなく、言葉に刻み込まれたジェンダーバイアスを喝破して少しでも社会的な公正さを獲得していこうという動きが出てきます。

かもがわ出版|寿岳章子 女とことばと憲法と
kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki

寿岳章子氏は(日本語学としては)戦後の早い段階からこの問題を積極的に扱い、発言してきた研究者です。この本はその寿岳氏が残した日記を手がかりに、研究と生活とを浮き彫りにした伝記で、大変読み応えがありました。言葉をスタティックに扱いながら、しかし社会を変える力を持つ存在としても扱う。そのパワフルな進み方に舌を巻きます。

夏の間はサボっていたパン作りも再開。やっぱり涼しくなるとパンが食べたくなる。

チョコチップのパン。いつもは強力粉だけですが、強力粉250gと薄力粉50g、250度で12分。軽い口当たりのパンとなりました。

BURRN!40周年、メタルの盛衰とともに 再来望むはあのバンド:朝日新聞デジタル
asahi.com/articles/ASSBC0VL7SB

学生時代にめっちゃ読んでました。私が読んでいた頃は酒井康がまだ編集長をやっていて、広瀬氏は新入社員という体だった。いつのまにやら編集長に…。ここで書かれているように90年代後半にはミクスチャーロックが流行して、アイアンメイデンみたいな老舗の人気は陰ってきたのを覚えています。

そしてメタルはアニメタルを経てかどうかは知りませんが、アニメやゲームの楽曲として生き延びたと。これは実感としてもそうです。やっぱ、プロレス、マンガ、アニメといった正統派のサブカルとしての命脈とでも言いましょうか。読者は増えはしないでしょうが、ある程度下がり聞いたところで低め安定の飛行を続けるのでしょう。

遊仙窟を読む。漢文資料を扱っているくせに、これまで読んだことがなかった。

遊仙窟 (岩波文庫) | NDLサーチ | 国立国会図書館
ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100

遊仙窟は短いし、これは現代語訳なのでさらっと読めてしまう。原文や訓読文がない代わりに、醍醐寺蔵写本の影印が付いていて、注も豊富というマニアックな作り。あとがきを読むと醍醐寺から写真掲載の許可が下りたのは、予想外のことだったようです。とっつけた感じがしないでもない。

日本古典文学への影響が多いことでも知られるが、和漢朗詠集や新撰朗詠集に引かれるくだりは、影印から原文を探してみる。

容貌似舅 潘安仁之外甥 氣調如兄 崔季珪之小妹 張文成
容貌のかほばせは舅に似たり 潘安仁が外甥なれば 氣調のいきざしは兄のごとし 崔季珪が小妹なればなり(和漢朗詠集706)
めっちゃイケてるその顔はスーパースターの血筋だからというくだり。

可憎病鵲半夜驚人 薄媚狂鷄三更唱曉
アナニクノ病鵲ノヤモメカラスヤ 半夜ニ人ヲオトロカス 薄媚トナサケナキ狂鷄ノウカレトリノ マタアケサルニ曉ヲトナフ(新撰朗詠集732)
後朝の別れが辛いというくだり。三千世界の烏を殺し、の元ネタ。

会員ではないので読めていないが、ホントだとしたら興味深い。ブラジルでX辞めたら、2割がメンタル改善という調査。

nikkei.com/article/DGXZQOGN10C

はてなのコメントを見ると、他のSNSは増加しているのにメンタル改善が見られるとするとXには何かあるのでは、という声もある。

それはそうだと思う。Xが嫌で移った人がたくさんいるSNSであれば、同じような何かは減少しているはず。

MastodonはXよりはエコーチェンバーが起こりにくい設計になっていると感じる。Xとはユーザーの傾向も異なるが、その一方で設計も大事だなと思う。

聞く価値はないが、過去の放送として音声がアップロードされている。パーソナリティは行き過ぎたコメンテーターにブレーキを利かせようとしているようにも聞こえる。

それはそれとして受容できないが、世間の猥雑さの中に埋没していくようなおじさんによる飲み屋のスモールトークに落とし込むことで、ギリギリエンタメの許容ラインに落とし込みたい意志も感じるが、それもできていない。

こういうのを耳にしてしまうと、工学系であっても大学では教養教育がもっと必要だと思ってしまう。

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