うなぎに関するニュースの街頭インタビューで、「こんなに高くなっちゃあ、ひょこひょこ食べられない」という声と、字幕が。
「ひょこひょこ」は、例えば足を悪くした場合に不規則な動きをする、といった感じで自分は使います。しかしこの話者は比較的密な頻度、というほどの意味、つまり「ちょくちょく」の意味で使っていると思われます。
オノマトペは臨時性が高いから、かなり自由に使える面はあるけれど、んー、ひょこひょこが使えるかというと使えないほどではない。この文脈で「ぽくぽく」とか「もぐもぐ」などは使えないから、「ひょこひょこ」は許容の範囲かな。音象徴がそれを許しているのでしょう。
そういえば宮沢賢治の「クラムボンはぷかぷか笑った」というあれ、以前方言研究会で、作者の独創性ではなくて地域の方言であるという発表を聞いた記憶がある(あいまい)。「ひょこひょこ」の話者はいかにも東京風な人だったけれど、関東地方における気づかれにくい方言の可能性もあるな。
東北地方の方言オノマトペをまとめた文献を参考まで。
https://www2.ninjal.ac.jp/past-publications/publication/catalogue/onomatopoeia/tohoku_onomatopoeia.pdf
身体がめためただったので、昨晩2ヶ月ぶりに整体に。背中が固まっているので、自分のイメージとしては夕方を歩くエヴァ初号機の背格好になっていて、辛いったらない。
で、プロの手でガチガチのバキバキだったのを半分くらいは戻してもらった。お陰でほんとーにひっさしぶりに、朝まで一度も目覚めずにぐっすり眠れた。呼吸もできてる感じが戻った。歩き方も人間になった。目も重くない。
週末はお酒を飲んでみたけど、それでどうなるもんでもないですね、ある一定ラインを超えると。
今朝は新しいことも考えられる頭に、少し戻ったと感じる。身体と頭、あるいは心、は繋がっていますね。次の研究のことも考えられる余裕が少し出てきたかも。出勤途中に、バイビーの『言語はどのように変化するのか』を読みながら。
TeX Liveを2023にした。
https://tug.org/mactex/mactex-download.html
修正採用だった論文の手直しの詰めを一気に仕上げた。色んな事が少しずつ完了しているが、あれやこれが片付かず残っている…
夏休み…遠い蜃気楼のよう…
今日みたいに暑い日は、梅雨明けしてないけど梅干しの土用干し。明日も暑いようだから干しっぱなしにして出勤です。写真は1日でかなりカラッとした紫蘇だけだけど。今年は紫蘇の方も出来合いじゃなくて、きちんと揉んだもの。発色がかなりいいです。
角川武蔵野ミュージアムに午前中、さくっと。
「ツタンカーメンの青春」展、これは全てレプリカとデジタル技術でバーチャルに見せる的なやつですが、象形文字の解説までついてなかなか見応えがありました。
で、もう一つ、こっちがメインの目的でしたが「はじめてのBL展」。歴史と広がりが体験できる興味深い展示でした。二次創作ブームってサムライトルーパーからではなくて、キャプ翼からだということも分かった。
来場の皆様、おそらく腐女子であろうという体でしたが、この腐女子という言葉は2000年ごろにできたとされるのですね。マジですか。
あとはご存じ、あの図書館。蔵書のラインナップはもちろん大学図書館のほうが上ですけれど、視覚的にジャンルが飛び込んでくる仕掛けという点では、こういう知的教養空間としての見せ方は全然こっちのほうが素晴らしいですね。大学では教養課程コーナーとしては機能するかも。
政治や社会の問題から距離を置いて、趣味の世界に耽溺し邁進する、というスタンスが一定の批評性を持ち得た時代や立ち位置というのはあったと思っているのだけど、その行き着く先が、義理人情という人間関係に基づく最も身近で強力な政治に取り込まれて抜け出せなくなることだった、という結末を見せつけられるというのは、なかなかきついものがある。
山下達郎の音楽は好きです。しかし本日のサンソンの話はいただけない。
https://www.oricon.co.jp/news/2286175/?ref=news_group
確かに音楽的才能や業績は、作り手が仮に犯罪者であっても、違う次元の芸術作品として受容することは可能でしょう。しかし加害—被害の構造で自身も利益を得ながら、そのことを「知らぬ」で通すことは無理筋と思われます。
僕は一部の芸術に関わる人が、あるいはもしかしたら人文科学研究に関わる人にもいるかもしれないが、芸術や研究のために誰かが加害されている構造を、その構造に身を置きながら知らん顔をするのはおかしいと思っています。巨大な構造のなかで自分が実質何もできないとしても、その構造を知って受け止めることは最低限必要なありかただと思います。
恩義やご縁はとても大切だが、それこそが問題を隠蔽してしまうのだということ。ハラスメントの基本構造でしょう。山下達郎のような音楽至上主義のようなものは、希有であると言えるが、反面悪い意味でピュア=稚拙であるという弱点があった。今回それが露呈したようで、芸術へのイノセンスみたいなある種の幻想がすごく悪い方に出てしまった事象であると思う。
国立国会図書館デジタルコレクションに、投稿中の論文にかかわる資料がカラーで掲載されていた。モノクロの影印本を利用していたが、これは驚き。というか今や影印本の存在を事典類で調べるよりも、まず先にネットに画像があるかを探すべきなんだな、と改めて思う。もちろん解説や校訂付きの影印の価値はただの画像と比べるべくもないが、その画像の精細さは影印本にはかなわないわけで。
国立国会図書館本はまずある、と思うべきだった、これは単純に私の手抜かりでもあった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2554127/1/7
いやー、ほんと何でもあるなと口走ってしまったくらいです。
日本語学の研究者です。漢字音史、漢語アクセント史を文献ベースで狭くやってます。自己紹介的な論文に、「アニメ『ドラゴンボール』における「気」のアクセント─漢語アクセント形成史の断線から─」(日本語学2022年6月号)あり。データベース作ったり、自転車に乗ったり、珈琲を飲んだり、ジャム作ったりしています。https://researchmap.jp/read0135868