日頃寡黙であったりすると、トリガー的な何かがあった時には堰を切ったようにべらべらまくし立てたり、とんでもなく長い文を書いたりするのではないか。
ただ文章作成の要諦はコンパクトに書くことだと聞いたことがあるし、受け手の受け取る能力にも恐らく限りがあるわけだろうから、その営みは不毛なものとなってしまう可能性が高そうだと思われる。
そしてここが難しいところだと思うのだが、そうやって垂れ流したような表現の中に往々にして真実というか真相らしき何かが散らばりつつも割と多く含まれているように思われる点だ。
そういうわけで、それらを知りたいがためにとりあえず垂れ流してみるというやり方が採用されることがあるのではないか。