※以下は特定の人物や事例への言及を含むものではない。単なる一般的な考察の類である。
何かあるとすぐ「頭が悪いのだろう」「知能に問題があるせいだ」などと他人について述べている人にたまに遭遇するのだが、本当にそれらに問題があるのだとどうして言えるのだろうか?
また自分にとっては当たり前の知識を相手が備えていない事を突いて、馬鹿である等と相手を貶していたりもする……。
人を貶すのも軽蔑するのも自由だと思うのだが(特に内心において)(また所謂『表』に出さない限りにおいて)、どうしてそのように判断してしまうのかというその心理のメカニズムは少し興味深いように思う。
多分簡便かつ暫定的な判断が必要とされていて、幾ら何でも本心からそう強く結論付けている訳ではないのだろうと思う。
さもないとその発言者は自らの知(認識能力)について高すぎる評価を与えてしまっている事になるのではないか。
そこに見られるのは恐らく彼我の知的能力の差などとという問題ではなくて、恐らくは発言者における自尊心の問題なのではないかと思われる。
有難い指摘だと思いました。
以下は脇へ逸れつつ、ニュアンスについての想像です(※タラレバの多い話です)。
誰かが勝手に特定の人物を聖人化すると、「誰が聖人に値するのか(聖なる者であるという認定)という選考基準」に関して権威を持っているのか誰なのかという話になってくるような気はします(つまり教会なのか、世俗の権力者や民衆•信徒なのか)。
もし教会以外の誰かが誰かを聖人と認定するならば、それについて教会は秩序を乱す行為と捉えたのではないでしょうか。
多分聖人については管理が必要だと教会は感じていたのではないでしょうか。
もしかしたら何らかの混乱(例えば民衆•世俗の権力者が無闇に誰かを聖人視する等)があったのかもしれません。
その場合、自然のままに放置されていた聖人の認定を教会が重い腰を上げて管理し始めた……辺りがありそうな展開だというような気がします。
聖人を公的に教会が認定する仕組みの成立の背景には、教会の権威の確立というか再確認のような動きがあったのではないかと思いました。
ヘロデによる幼子殉教者(幼子のうちに殉教したが為に本当に聖人に相応しかったのか分からない)や、アウグスティヌス(人気があった為に自然(!)な流れで聖人となった)のように「昔」は聖人認定も緩かったのかもしれません🤔 [参照]
自分にもこんな傾向が少しあるような気がしました。
人生の序盤においては違いが小さくても、時の経過と共にそれが積み重なっていくにつれ、総量として非常に大きな差となっていると感じます。
積み重なっていくといっても単純な足し算以上の違いが出ているような気もします。
テレビゲームをする際に熟達したプレーヤーは所謂「縛りプレー」(わざと自らに禁則を科す)をするかと思いますが、それと同じ気がします。
※ここでの「禁則」の用い方は和声学における用法と同じです。
わざわざHARDモードに設定してクリアしようという事ですが……人生一周目の人にとっては過酷だなと感じる時があります。
"孤立型アスペルガーの特徴【ASD・自閉症スペクトラム・発達障害】" を YouTube で見る https://youtu.be/5RLL5U6uZ4k
リプライというリアクションの攻撃性(?)
最近Twitterでも自分からリプライした事をきっかけに少し揉め事っぽい事を経験した。
自分はリプライされる事に抵抗があまりない方だと思います。
ただ(一般的にはどうか知らないが)リプライをする側に自分が回ると、それは相手にとって直接的かつ攻撃的に感じられてしまうのかな等とも思う。
(相手への直接的なリプライは)相手への指向性(?)が強すぎて相手にとって不快になりやすいのではという話です。
反応を強いられているような気がして(相手としては)侵入•侵害(?)されているような嫌な気持ちになったり、(過度に)防衛的になったり(その結果として攻撃的に相手もなったり)、態度を硬化させたりするのかもしれないと思います。
fedibirdではそんな訳で(?)リプライよりも参照の方を用いた方が良いのかもと思い始めています(相手を不快にさせたくない思いが割と強い)。
Twitterではそれの代わりにRTかつRTを含んだtweetをすぐ次に来るように投稿していました。
またエアリプ(?)というのが「実際にどういうものを指すのか•どの程度嫌がられるものなのか」を実はあまり良く分かっていないのですが、それは関わりが直接的になるのを防ぐ為には有効なのかも等と思いました。
Twitterにおいて見掛けた以下のtweetを何となく思い出しました。
子に対しての場合には輸血ができるのかもしれませんが、大人に対しての場合は難しいのかもしれません……(ドイツではどうなっているのか自分は知りませんが)。
そもそも子の信仰が子自身の意思によるものかはどうやって判断するのかという問題はありそうと思います(これはカトリックの幼児洗礼でもいえる事だとは思いますが)。
輸血に限らず死に至ると分かっている選択肢を取ろうとする人の意思を尊重するのは困難だと個人的には(割と強く??)感じます(介入したくなってしまうという意味です)。
https://twitter.com/Pnagashi/status/1629783936598687745?t=7wPckcKaJuXQx-HUZVLsHA&s=19
元の記事(増田)を読んできました。
うつか何かの影響による考えによって、教訓という項目以降の記述は支配されているような気がしました。
結婚と関連付けるようにして自らの立ち位置を理解しようとしているのかなと思いましたが、その辺の理解は取り敢えず後回しにして精神科へ行くのが良いのだろうと感じました。
行くのは心療内科ではなく、精神科の方が良いような気もしました。
また、WEB上の口コミが果たしてあてになるのだろうか等とも思いました。
精神保健指定医の資格を持つ精神科医の元へ行くのが多分良いのではと思いました。
休む事について心理的抵抗があるのかもしれませんが、休んだ場合に比べて休まずにいる場合ではより多くのものを失うような気がします。
また休養だけではなく医師の指示(服薬についても含む)に従う事も必要な気がします。 [参照]
面白かったです。
動画のコメント欄にはbeautiful等という感想が多く書かれていたような気がしますが、so sadと述べている人もいるようでした。
脇役(?)の皆さんは良い味を出しているような気がしました。
この動画が単調にならずに済んでいたのはこうした人達のお陰だろうと思いました。
Ruthの気持ちに対して割と共感というか同情を自分はしていたように思います。
毎日失われ続ける愛に向き合うのは辛いような気がします(そのまま裏返しに解釈する事もできるのでしょうけれど)。
患者のみならず患者の家族に対してもサポートが必要なのでは…というような観点から、そのような喪失感を毎日味わうRuthに対して心理的なサポートが必要なのではないか…等と少し感じました。 [参照]
(ゼネラルストライキについてではなく、マスクについて書いています)
YouTubeへ関連する動画を観に行ったところ、マスクを着用していない人達が殆どであった事に驚きました。
もし蔓延している時期において、ストライキ•デモ等の活動する際にはマスクを着用するようにと政府側(?)から促された場合には参加者達はどう対応するのだろうと思いました。
「ストライキ•デモは公衆衛生上とは別である」と理解して大人しく(?)マスクを着用してくれるのか、もしくは「戦意を削ごうとしている•話題を逸らそうとしている」等と解釈してしまってマスクを着用してくれないのか……。
つまり政府に対する不信感の高まりは、それを通じてなされる公衆衛生に関する呼び掛けへの協力を減らす可能性があるのではないか……と感じました。
またマスク着用を呼び掛けるのが誰であるかによって、着用率も変化するのかもしれない……等とも思いました。
例えば市民に人気のある人物がマスク着用キャンペーン(?)に参加して注目される場合には市民のマスク着用率は改善するのかも……といった感じです。 [参照]
確か同監督の作品だったと思いますが随分前に「そして人生は続く」(?)を観ました。
深夜にNHKが流してくれていたものを録画していたのだと思います。
その映画では終盤にブランデンブルク協奏曲からの抜粋が使われていたように記憶しています。
その場面では生命力の高まり(?)や生命賛歌(?)のような感情やエネルギーが描かれているような気が、自分にはしました。
バロック音楽の特徴は躍動感や力強さ•生命力であるというような記述を後年になって読んだ自分は、音楽を映像へ適合させるキアロスタミ監督の卓抜な手腕が自分に呼び起こした感動を改めて思い出しました。
それは、音楽を映像と結び付ける事によって自作品の印象を観客の記憶へより強く残そうとした結果だったのかな……とふと思いました。 [参照]
フーガ(音楽)を好む。
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