自分に二元的な代名詞を用いられたときに出てくるまず出てくる感情は傷つくこと、その次にはせいぜい怒り、なんだけれど、バトラーにせよ、誰にしろ、自分以外に二元的な代名詞が割り当てられているのを見たとき、身体中の血が沸騰するような感じがありますね
クィアの生存可能性を回復するべく諸制度が見直されてゆく過程で想定されるバックラッシュになにか言うことがあるとするのであれば、それが何であれ排除されてきた人々(これはバックラッシュにおいてしばしば掲げられる〈女性〉も当然含むものとして)の権利を回復する、ということはそもそも、必ずしも肯定的な感情のみをもたらすものではない、ということです。
たとえばバトラーは諸制度から排除され、生存可能性を剥奪されることを理解可能性の領域(制度によって認可される者たちの領域と呼ぶのがわかりよいでしょうか)から排除されていることだと説明しています。そして、理解可能性から排除されたものはアブジェクション(=おぞましいもの)と結びつけられているのだとも論じています。
その説明では、クィアは現行の諸制度にとっての恐怖の対象ということになります。したがって、諸制度から排除された人たちの生存可能性を回復する過程は、恐怖の対象であったものを受け入れる過程でもあります。自らの恐怖を認めて、そのうえで受け入れる過程だということです。おそらくその意味では自らの脆さを認めることでもあります。
特定の人たち——バイナリーであるかを問わず戸籍上の性別の変更を望むトランス——が生殖の権利を奪われるということは明らかに、明らかに不当なのでこれは当然とも言えるのだけれど、諸々の状況からそれが下されるか不安だったなかで違憲判決が出たことにひとまず胸を撫で下ろしているというか……(前例としてある旧優生保護法の違憲判決からも、当然そうなるべきだし、そうなると思うことができるはずなのですが……)(外観要件の整備も同時に進めばいいのですが…)
【拡散希望】岡真理さんの先日の講義、アーカイブ公開されました!
追って字幕など付くそう。
「ガザを知る緊急セミナー ガザ 人間の恥としての(2023年10月23日)」
https://youtu.be/-baPSQIgcGc?si=euWd-GgviYr9pojJ
きのうの岡真理さんの講演、ずっと重要な話が続いていたけれど、岡さんが「〜として」という使い方で日本人という枠組みを持ち出したこと、humanismやhumanityを問題にするようは発話があったこと、についてはわたしはどうしても同意しかねると思ってました。
前者は国家に人間を帰属させてそのことにより一括りの属性が付与されるかのように扱うということで、イスラエル建国から続く「民族浄化」と岡さんが呼んだ一連の暴力はおそらく、そのような欲望と全く無関係ではないから。
後者については、humanismやhumanityに訴えることは結局〈人間の条件〉めぐる問題になり、〈人間の条件〉とは結局、誰が〈人間〉として尊厳を守られるべきで、誰がそうでないかを選別する装置であるから。それは、ホロコーストやイスラエルによる暴力が「人間の皮をかぶった獣」といった話法を持ち出して行われたことを批判する岡さんの意図に反して…
しかし、これらの問題によって岡さんの話の重要性が棄却されるべきではない。けれど、一方で重要性によって問題の指摘が禁止されるべきでもないと思います。しかし、全てを単純化しかねないSNSの速度の中で両方をクリアする話の仕方をわたしはまだ見つけられていないので、「要点」のツリーにこれは書かずにいたのでした…。
明後日25日に最高裁で憲法判断が下る、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(特例法)の4号要件について、なぜそれを「手術要件」と呼ぶべきでないのか、書きました。明後日までに、ぜひ読んで欲しいです。
https://yutorispace.hatenablog.com/entry/2023/10/24/004858
岡真理さんのガザを知る緊急セミナー、聞いていました。最後の即時的な人道支援だけでなく背後にある政治的問題の解決に動くべきである、でなければ、すでに行われている暴力との共犯関係を結ぶことになるという話は、冒頭で話された「忘却が次の虐殺を準備する」というのとおそらくパラレルで……。
(人道支援が必要な状態なのは事実だとしても)そこで振るわれる暴力のそれぞれを単発の出来事として捉え即時的な支援で全てを済ませてしまうのであれば、結果的に背後にある政治的な問題が隠蔽されてしまい、暴力的な構造が何ひとつ変わらないどころか変わるべきものとして認識されない、ということ…。
だから歴史の話、(サイードの援用もありましたが)特に報道によっていかに問題がずらされてきたかということがまた重要で、岡さんが問題は「ハマースとは何か」ではなく、「イスラエルとは何か」という問いであるべきと話されていたのもそれと繋がってくる話なのではないかと思いながら聞いていました。
クィア批評を書くとき、一歩間違えると抑圧的な規範に向けたつもりの矛先が、作家や作品や、当該のクィアネスに自らをアイデンティファイする人たちに向いてしまい、意図に反してその全てをめちゃくちゃにしてしまう可能性があるので毎回すごく緊張しながら書いています。今回は作品論ではなく作家論ということもあり、いままでになく緊張している、というか怖さがあるのですが、クィア批評の書き手からその怖さが消えたらおしまいだとも思う。
『ユリイカ』2023年12月号の長谷川白紙特集に論考を寄稿します。絶賛執筆中ですが、ジェンダー・セクシュアリティをめぐる諸規範を長谷川白紙がいかに攪乱しているか、あるいは攪乱にあたってどのような戦略を選択しているかについて分析するものになる予定です。
今回の原稿は『花と青』vol.1に書いた「破れ目に賭けられた共存——長谷川白紙の詞におけるクィアネス」に大幅に加筆・修正を行うものでもあります。当時はまだうまく整理をつけられなくて扱えなかった「ユニ」の話もするはずです。作詞でないところでは、例外的に『夢の骨が襲いかかる!』の「ホール・ニュー・ワールド」のボーカルにも触れたいですね。
特集にあたってリライトの機会をいただけたことを嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします!
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3875&status=published
バトラー、文芸 │ nonbinary(they/them)・asexual│ 文芸同人誌「花と青」 https://researchmap.jp/aomoto-yuzuki