クィアの生存可能性を回復するべく諸制度が見直されてゆく過程で想定されるバックラッシュになにか言うことがあるとするのであれば、それが何であれ排除されてきた人々(これはバックラッシュにおいてしばしば掲げられる〈女性〉も当然含むものとして)の権利を回復する、ということはそもそも、必ずしも肯定的な感情のみをもたらすものではない、ということです。

たとえばバトラーは諸制度から排除され、生存可能性を剥奪されることを理解可能性の領域(制度によって認可される者たちの領域と呼ぶのがわかりよいでしょうか)から排除されていることだと説明しています。そして、理解可能性から排除されたものはアブジェクション(=おぞましいもの)と結びつけられているのだとも論じています。

その説明では、クィアは現行の諸制度にとっての恐怖の対象ということになります。したがって、諸制度から排除された人たちの生存可能性を回復する過程は、恐怖の対象であったものを受け入れる過程でもあります。自らの恐怖を認めて、そのうえで受け入れる過程だということです。おそらくその意味では自らの脆さを認めることでもあります。

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だから、バックラッシュに対して、わたしはフェミニズムの諸実践はしばしば強調されるような明るい側面のみを持つのではなくて、自らの弱さや脆さ、恐怖を突きつけられる場所でもあり、そして、それでもそれを受け入れていくことが必要なのだと言います。共存とは、差異を認め、差異がもたらす取り乱し、不安定さを受け入れることなのだと……。

その意味で、シスジェンダーの人がトランスに罪悪感を抱くことが制度の改正に寄与するかどうかという議論の、全く寄与しないという立場は制度の改正の過程のみに着目すればそうかもしれない(それと、関係性次第ではあるのでしょうが、それがトランスの個人に直接伝えられた場合、ケアの圧力を生じさせかねないという問題もあります)のですが、当該の人がフェミニズムに参与する過程において、その人がそれについて考えることはとても重要なものだと思いますね…

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