クィア批評を書くとき、一歩間違えると抑圧的な規範に向けたつもりの矛先が、作家や作品や、当該のクィアネスに自らをアイデンティファイする人たちに向いてしまい、意図に反してその全てをめちゃくちゃにしてしまう可能性があるので毎回すごく緊張しながら書いています。今回は作品論ではなく作家論ということもあり、いままでになく緊張している、というか怖さがあるのですが、クィア批評の書き手からその怖さが消えたらおしまいだとも思う。
おしまいというか、このあたりの緊張感とセルフチェックの頻度には一定の連関があるので、それがなくなると意図に反して抑圧に加担してしまう可能性がぐっと高くなってしまうのではないかと思うということですね……
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