@biotit おお、朗報ですね。本が出てアメリカでサイン会などをしていたなどは知っていたのですが、候補になったことは橋本さんの情報で知りました。しばらくは自分の同人誌の作業にかかりっきりで申し訳ないことにすぐには読了できないかもしれませんが、紹介される価値のある作家であると信じています。クラリオンのワークショップにもいたそうですね。
GRANTAに掲載された“Manifest”でも強く感じたが、女性の皮膚感覚、なかでも広義の違和感を掬い上げる手つきは卓越していると思う。体からはじめて母乳が流れ出る「光景」を主人公はほとんど他人事のように冷静に観察するが、本篇にあっては自分の身体とその外側との境界線は、つねに揺らいでやまないものとして描かれる。「自分のこのからだはほんとうに自分のものなの?」という感覚を一度でも抱いたことのある人にこそ読まれてほしい。
Nightmare Magazineに寄せた掌編“Things Boys Do”では赤ん坊はビクスビイ「きょうも上天気」やエムシュウィラー「ベビイ」にあらわれる〈恐ろしいこどもたち(アンファンテリブル)〉のように周囲の人間を破滅におとしいれる、あるいは混乱を意に介さず自身の愉楽を貪る無邪気な存在としてあった。けれども本作は悪夢的な結末のあるアイデアストーリーではない。勇敢なる自身の母親との交流、そして和解を前提としたパートナーとの小さくも重要な対話を通し、母としてのアイデンティティをゆるやかに獲得していく結尾に一級の文学と認められうる美点が存するといえる。(了)
The Best Short Stories 2022: The O. Henry Prize Winners(Anchor)より、Pemi Aguda“Breastmilk”。作者Pemi Agudaはナイジェリアの女性作家で、アフリカSFの年間傑作選に作品が採られながら国際文芸誌GRANTAにも登場、2022年にはいわゆる第一席は逃したもののO・ヘンリー賞も本篇で受賞という期待の新鋭。筆者はジェフ・ライマンのウェブ上の文章でこの作家のことをはじめに知った。
第一子を産んだばかりの、けれど自分の乳房から母乳が出てはくれない母親を主人公とし、母や子、パートナーをふくむ家族や病院関係者との関わりを繊細きわまりないタッチで描いていく。周囲の人間や世間が一方的に規定する「母親とはこうあるべき」という像に主人公が違和感を覚えていくさま、夫婦別姓を「許可」し、「ジェンダーに理解がある」と自分では考えているものの内実は抑圧的に振る舞うパートナーの存在。2010年代以降その勢いが明確に目に見えるようになってきた、「抑圧されてきた女性作家が声を上げる作品」の世界的な興隆、本篇もそうした大きな運動のなかで捉えたくなってしまう。(つづく)
宮川尚理氏が論文で紹介しているウニカ・チュルンの詩。https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337395035136
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子供の遊びは厳禁
道化者はうんざりして暗い雨の中をさまよう。
がらくたの山にうんざりして。ヴァイオリンかき鳴らし
庭の中を凝視する。楽しみは虎の接吻でそこなわれてしまった。子供たち,跳躍を救って! 小声で唱えて,「米,砂……」と。星の精霊に助けを求めてはだめ! 狂った時間が嘆いている
「子供の遊びは厳禁」と。」
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これについて宮川氏が「ウニカ・チュルンが最初期に試みたアナグラムのひとつが「子供の遊びは厳禁」といった抑圧そのものであるようなテクストから出発していることは暗示的である。抑圧にさらされている日常の中から,チュルンはアナグラム操作によって《もうひとつの現実》を導き出そうとする。」書いているのは面白い。ただ、邦訳の『魔女文書』はテキスト量ほんとうに少ないです。手元にありませんが、500字もないくらいだったような。
「文藝」の最新号で知ったジョージア映画祭、アレクサンドレ・レフヴィアシヴィリ監督「19世紀ジョージアの記録」。「深い森を舞台に謎めいた陰謀が描かれる。モノクロームの夢幻的ともいえる詩的で象徴的な映像、迷宮のような世界に政治体制への思いが込められた伝説的作品。権力による暴力が超現実的な虚構空間で寓意的に表現され、時代を超えた内容である。」映画祭の公式サイトによる紹介文に惹かれてこの作品を選んだけど、独自の美学の感じられる印象的な作品だった。
エンドロールの幕が上がったあと、この映画祭の企画を務めている方が「60分の映画でお金を取ったら悪いから」と言って、作品とジョージアの現代史との関係をマイク片手にアドリブでレクチャーしてくれたのに熱意を感じた。帰宅してすぐ、(ほとんどジョージア文化を知るためだけに以前レッスンを受けていた)オンライン英会話のジョージアの先生にきょうのことを送った。こうした親密さもあるのだ。
極近視眼的なことその2、柘榴について。そのパキスタンの作品にも柘榴が出てきた。佐々木あや乃氏の文章によると、ペルシア文学にも頻出するらしい。
「柘榴はペルシア語では「アナール」と呼ばれ、省略形の「ナール」は「火」という意味も含む。目にも鮮やかな真紅の柘榴は真っ赤に燃え盛る火とも通ずるところがあるためであろうか。ペルシア文学では宝石箱やルビーは言わずもがな、麗人の唇や胸、血の涙(号泣して涙を流し尽くしたさまをこう表現する)、人が微笑むさままでも柘榴に喩える。」(佐々木あや乃「色彩豊かな宝石箱でおもてなし」沼野恭子編『世界を食べよう! 東京外国語大学の世界料理』東京外国語大学出版会)
あるウェブサイトには、地中海西岸から中東のイラン、南アジアにかけての広い地域に柘榴は植生すると書いてある。一般に異文化理解を考えるとき、アナロジーや相同性でなにかを視ようとする(見出し過ぎる)のには慎重になるほうがいいのだけど、この作品を読んだことでモチーフとしての柘榴にさらに興味がわいてきた。
KAGUYAの翻訳短篇をこれまで読んだかぎりでは、ひとつの極から真逆の極へとゆく振り子のように人間関係が反転するような作品がいくつもある印象を受ける。それは現在の地球人の性が二分法で理解されることが多いことと関係はあるのだろうか。自分がいままさに殺さんとする未知の存在が(読者の主観時間で)瞬間的に恋人へと切り替わるなどという場面は、実社会では稀だろう。そこにファンタジーではなく、手法としてのSF性があるのだと思う。あるいは瞬間的なネガの反転ではなく、登場人物のときに微かなこころのゆれ動きを捉えようとできるところに言語芸術としての文学性があるのだと思う。
極近視眼的なことその1、ジンについて。南チロルのジェニー・カッツォーラ「パーティートーク」にもジンが出てきたし、少し前に読んだパキスタンの未訳SFFにもジンが出てきた。ただ、女性のジン(ジンニーエ)にははじめて出会った。(つづく)
ソニア・スライマーン「ムニーラと月」(「KAGUYA Planet」No.2)。パレスチナの名が冠されていることも手伝い、作品単独での感想はまったくまとまらない。ただ、自分が普段考えていることと照らすと、そこから(不可避的に)思考が拡がる箇所がいくつもあって興味ぶかかった。
これはメルヘンではないのか、あるいは、ここになんらかの点でのパレスチナ性はあるのか、と脱力する読者もいるのかもしれない。ただ気になった部分は、物語比較的序盤の「人間を地上から拐って恋人にしてしまう男のジンの話はたくさんあるけれど、女性のジン(ジンニーエ)の恋人になった女性の話なんて聞いたことある?」を含むパッセージ。ファンタジー的な意匠を纏っていても、この箇所は社会における束縛しようとする男性とか、異性愛を規範からの逸脱として斥ける態度へのちいさな声による異議申し立てとしてある。ただ、自分自身が男性読者なので、なにか根本的な思いちがいをしているかもしれない。(つづく)
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