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KAGUYAの翻訳短篇をこれまで読んだかぎりでは、ひとつの極から真逆の極へとゆく振り子のように人間関係が反転するような作品がいくつもある印象を受ける。それは現在の地球人の性が二分法で理解されることが多いことと関係はあるのだろうか。自分がいままさに殺さんとする未知の存在が(読者の主観時間で)瞬間的に恋人へと切り替わるなどという場面は、実社会では稀だろう。そこにファンタジーではなく、手法としてのSF性があるのだと思う。あるいは瞬間的なネガの反転ではなく、登場人物のときに微かなこころのゆれ動きを捉えようとできるところに言語芸術としての文学性があるのだと思う。

極近視眼的なことその1、ジンについて。南チロルのジェニー・カッツォーラ「パーティートーク」にもジンが出てきたし、少し前に読んだパキスタンの未訳SFFにもジンが出てきた。ただ、女性のジン(ジンニーエ)にははじめて出会った。(つづく)

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