ピート・ワームビー「世界は私たちのために作られていない」を午前中でさくっ読み終える。
訳の方が最近この界隈の本を数冊やってる方で読みやすかった。これ定型発達の人に向けて読んでほしいという本みたいだけど当事者ばかりが読みそうだな。拒絶敏感不安症(RSD)ってよくわかる〜!とか、権威のある人を普通の人扱いするのは間違った観念っていうのがけっこう衝撃だった。社内政治や上下関係や権威は獲得するものでその立場にいるだけでなく示さなければ意味がないって考えって失礼だしこちらの評価が低くなることだったのか…知らなかった……てなった。
続いて朝井リョウ「生殖記」に移る。

このサンドイッチの名前がモンテクリストっていうんだけど、トマトが入ったクロックムッシュのことをそう呼んだりするのだろうか?トマトだけにイタリア!みたいな命名?おいしい。

「神は銃弾」を、読み返す。ジャンキー口調や事象の挿入が最初つらいんだけど半分くらい読み進めるとそれも慣れて気持ち良くなってくるんだったなあと思い出す

梨木果歩「椿宿の辺りに」を読む。
今読むのにちょうどいい内容だった。身体の痛みに怪我に心も疲弊して悲観的にいる人、いた人、特に五十肩をやったことがある人に読んだら、この痛みの感じ実感を持った感想が聞けるのでは?と話してみたい。どっと何かが流れる感じ、物事が動く時はこんな時だと読んだ人それぞれに思い当たることが去来するのではないか。出来事の偶然や繋がりを鵜呑みにしない健康的な懐疑心、「積極的に待つ」という言葉に、本当にそうありたいと爽やかな気持ちになった。

これが「f植物園の巣穴」に繋がる話なのなら、村田エフェンディも家守綺譚も繋がっているから遡りながら読み返さなくては

カリン・スローター「砕かれた少女」を読み終える。
シリーズ通して決して癒えない傷を抱えたまま、悲しく真剣にどうにかぎりぎりで生きている人たちが出てくる、それに心打たれる。一作ずつずっしりくる読み応え

カリン・スローター「三連の殺意」を読み終え続きの「砕かれた少女」を読んでいる。グラント郡シリーズ読んでいたら、このシリーズがあることを知ったんだけど、ウィルに難読症があることをグラント郡シリーズでは強調して説明されていないので、基本不機嫌そうな人なんだなと思って読んでいたので、理解が捗ってありがたい。グラント郡シリーズはドラマになってんの?!?!ディズニープラス?!えっ?マジで?待って??キャストを知りたくない!ウィルは私の頭の中の映像で完全にコリン・ファレルで再生されているので、観たいような観たくないようなだな

ニナ・ラクール著 吉田育未訳「イエルバブエナ」を読み終わる。

まずカバーのデザインが最高なんだが〜〜?!!で、読み終わるとあの場面なんだなこれ、とわかって二度最高なんだが〜〜!!
「ザリガニの鳴くところ」「スリービルボード」の映画みたいな映像を思い描きながら読む。

家を出たりして大人になっていく時の、それぞれの悲喜こもごもが、映画やドラマのようなことは起こらず、おもしろくもないつまらないような、こんなもんかという現実よりに描かれていて、それが読んでいるうちにじわじわと愛おしくなってくる仕掛け。ふたりが何度も出会い直しているところがうまい。現実感。

私もエイミーみたいに家の改装したいな。アメリカは見込みのあるボロ家を買ってきれいにしてまた売るという不動産のやり方というか趣味と実益を兼ねたみたいなビジネス?があるのは何となく知っていて、例えばドラマの登場人物の趣味がそれっていうのを見かけていて、今まで興味がとてもあったけど、それが読める機会に巡り合ったことがなかった。それが物語に組み込まれてて、嬉しかった。

柴田勝家の文庫「アメリカン・ブッダ」を読み途中。

収録の「鏡石異譚」は、今まで読んだ私の中のタイムスリップものの理論の中でもいちばんに好きかもしれない。
現在は今生きているみんなの記憶が宇宙全体に広がったもので、もしも誰かひとりが未来を知り過去を一部を改変できたように思えても、それは忘れたりして事実が見えなくなっているだけ。自分の記憶を覚えていることを、自分で書き換え続けているだけで、起こることは大きくは変わらず、自分の判断を間違っていたと思うその瞬間さえも、受け入れて行けばいいのではという時間旅行の考え方が、なんと誠実な言い方か、と新鮮に感じ感心する

イーユン・リー「千年の祈り」を読む。
どの話も哀しく鋭く強く詩のように突き刺してくる。自国の言葉で思考し異国の言葉で描こうとすると自然とそうなってくるような深さがある。そしてそれをまた私たちの言葉に訳してそれを読んでも伝わるほどの強度なのだ

映画を観たからあらすじは知ってるんだけど、小説も良すぎるフレーズありすぎていちいち何度も止まって悶えてしまうので読むのが遅い。コーマック・マッカーシー好きすぎる。「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」

pha「パーティが終わって中年が始まる」を読み終える。
ひとり辛さを語る文をわかるなと読んでいたら途中でパートナーがいるとわかりそっち側の人かとがっかりするとか、やることを紙に書いてやったやつから線を引いて消してかないと何をするんだったかわからなくなるとか、なんで自分は京都に住んでないのかなと思うとか、気持ちわかりすぎて笑ってしまった。Maher Shalal Hash Baz (マヘル・シャラル・ハシュ・バズ) というバンド?を知れて嬉しかった。こんなの好きだ。吹奏楽部の練習が風に乗ってとぎれとぎれに聞こえてくるみたいなやつ。あとさらっとずっと文章うまいので、さらさらと読めてしまいそのモラテリアム感が味わい。不真面目と感じてしまう人もいるかもしれないと思うけど

デヴォン・プライス「自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界」を読む。

表紙に「定型発達者のように装うことに疲れたASD者たちのリアルな姿」「アン・マスキング”ふつう″という画面からの解放 ありのままの自分へ」とあり、読み終えるとこれがすべて言い表しているというのがわかる。

「仮面をつけている」「仮面ASD」「ASD者」という表現がすってと頭に入ってきた。乖離や離脱、媚びへつらい、お人よし、これらの状態は自分の性格なのかと思っていたけど、生き延びる為の行動であることを、具体例を出し解きほぐしていく形式。

応用行動分析や認知行動療法っていくら読んでもなんか違う気がするんだよな、マナー講師にマナー教わる研修みたいな気持ち悪さ、嫌さなんだよな、うまく言えないんだけど、とずっとずっとひとりで思っていたその理由がわかって嬉しかった。嫌だと思っていたのは自分だけではないということも。
えらく読みやすい訳だなあと思ったら「自閉症スペクトラム症の女の子が出会う世界 幼年期から老年期まで」も訳してる方だ。あれもすごくわかりやすい本だった。

水野しず「正直個性論」を読む。
3章正直の、心の負債多重債務者、もう知らねぇよ精神の獲得、など読んでいて好きだった。どでかフォントサイズにしたり太字強調や文頭の位置をわざとずらしたりしているところが世に流通するビジネス自己啓発本を皮肉っているというか、個人サイト全盛期の侍魂などのおもしろ読ませるサイトを思い出させ同人誌みたいで好き。これからもたくさん書き続けてほしい人と思う
 

坂口恭平「生きのびるための事務」を読む。
読んでよかったな〜!と強く思えた。最近でいちばんかも。私とはあまりにも考え方が違いすぎて痛快だった。私と違う人はなんで違うのかな?という長年の私の中の問いの一部にかなり触れている。

具体的でわかりやすいので大ブームになるのでは?「夢を叶えるゾウ」や「チーズはどこへ消えた?」とか「小さいことにくよくよするな」くらい世間的に流行ってしまうのでは?私がまだ書店員やってたらビジネス自己啓発のエンド台にでかでかと積むな、マガジンハウスというところもキャッチーだなとさえ思った

「ヘルシンキ 生活の練習」を読み終える。
無表情でマジレスぎみのフィンランド人たちが私はいいなと思う。
自分の書いたものがいつも納得いかなくて嫌いと言い放つ著者に、え?そんな言い方、嫌いなものを他人に読ますなんて、かなり自分に自信があり傲慢に無責任に感じるが?と思って笑ってしまった

「もっとかんたんきれいに編める。パティさんの編み物知恵袋」を読む。

最初からめっちゃ元気出る。あなたの今のそれは間違いではなく、知らないがゆえに知らないまま高度な編み方をしてしまっているのですよ……!そういう編み方ありますよ、いまそれを使う場面じゃないだけで……あとからあれは自然とと〇〇編みしてたってわかりますよって。

これはいわゆる編み物の本ではなく読み物で、特に器用ではないくせに独学で編み物をしていて全然上達しない私向けだった。
目から鱗落ちまくりで、いままでがむしゃらに編んでたわ。こりゃいくらやっても上達せんわ、パティまじ感謝。

私は表目裏目とは?とゲシュタルト崩壊しがちだった。編み目を数えられなかった。その度に工程の写真をじっとみるしかなかった。編み目の数え方、編み物本の指示がわからん、針の入れ方、作り目がきつい。なんだ!みんなできるふりして、もしくはさっさとコツを掴んでしまったのでその苦労をもはや言わなかっただけかよ!!!と私にはすごくわかりやすかった。こういうの納得できないと全然進めない性質なので。

たぶんいくらか編める人や、編み図や道具を理解しているには、新しいことが載っているとは思えないけど、帯コメントが風工房さんというのがまたなんとも豪華な感じがする

柴崎友香「あらゆることは今起こる」を読む。医学書院のケアをひらくシリーズはおもしろくて何冊か読んでいるけど、これもよかった

頭の中が多動なのに、実際の活動量が少なすぎると感じること、静かにパニックになっているがそれは他人からはボーっとしているように見えているとわかってはいる、日常の動きを自分からマルチタスクにしすぎていること、頭にずっともやがあるみたいな疲れやすさ、片付けられなさ、かばんの中身や服装のこと、迷子のことについて、わりといろんなADHDやASDの本やそれを題材にしたドラマなどを観る時の、自分とは違うけどあえて説明するとこうなるかなでもなんか違うなでも惹かれるな、と観てしまう部分、わかる〜ってなった

ポテチをひと袋食べずに途中で止められた時に、コンサータという薬が効いてると思えた友人の話とか、私は診断を受けておらず、でもそうなんだろうな〜という自分の日常のあれこれが、ADHDすぎて目から鱗が落ちまくりだった。

特に迷子の部分は、あ?!これって迷子ってことになるのか………?ならわたしいつも常に迷子だわ、これがないの?普通の人は?マジで?あ〜〜だから移動が旅行が苦手なんだ〜〜〜!うわーーーー!てなった。読み返そう何度もマジで

「花四段といっしょ」を読む。全員好き。
いっぱい考えるのが楽しいな、のところでうわあーってなって、きっとこの漫画のことずっと好きだろうなってなった

「未必のマクベス」

読みながら思ってたんだけど、私自身が旅行とか海外に行くとか、大きく日数を組んで移動するいうことがほぼない。というか計画を立てるということ、お金や時間を調整することが難しいと感じて、辛くなってしまう性分が大きく実行に至らない。仕事や日常でそちらを選択しない。

だからかそういう本を読みがちで、それは本で読んで発散してるのかな?とずっと思っていたんだけど、たぶん本や映像で旅行しながら地に足がついた日常生活をするのが好きなんだ、それは発散ではない。私は旅行しているのだと考えて良いのでは?と思ったりなどした。

あと読んでるときの頭の中のBGMがマクベスではなくなぜかドン・ジョバンニだった。女たちに親切にされ知的な会話を繰り広げる春樹っぽさがあったからか

早瀬耕「未必のマクベス」を読み終える。

深夜特急やオレンジの壺を思い出す。騙そう、嵌めようとしてくる相手を受け入れて逆手に取る、みたいな賢さは憧れる。誰も信じるなと言われたあとに、どれくらい自分の勘を信じ、この相手になら騙されて破滅するのも込みで、協力を得て行動するのか。やはり人とは話すべきだし、だからといって全てを話す必要はないが、正直であることは、嘘をつく時にさえ必要なスキルであることがわかる。嘘をつくとき嘘を重ねがち、それで自分の首を締めがち、それを忘れがちである。

高野秀行「イラク水滸伝」読みはじめた。ひたすらに読むもの全てが楽しい

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