世界で起きていること、広く知るにはネットが一番便利だとは思うけど、ぱっと目に入るSNSの雑音の多さなんとかならないのかな

「作品について簡潔に伝える」ときに、他人にとってのわかりやすさがわからないので伝えるのがめちゃくちゃ難しい。
一から全部か、ほぼ説明できないかになってしまう。ええ塩梅みたいなのが一番苦手。

都会にいると風景を描くための引きが取れないんだな

薄曇りで湿度が増しているけど暑くはなく、明るさと空気の粒子みたいなものが細かく細かく分散しているような今ぐらいの季節が、一番緑が濃くておっかなくて好きだ

最近買った本。「ACE」の方から読み始めている。
噂には聞いていたが、註がとても充実していて凄い。

人の事情は無限にあるので、それら一つ一つに想像力をあてていくのは面倒だし処理しきれないものなのだろうけど、それをやるのが人間が得た何かであり、妙味であり、可能性だと思っている

作っているとわかることがある、というが、これは本当にその通りで、実際に手を動かしているうちに思いがけない事件が出てくる。脳内ではうまくいっていることが、物理に耐えられないというパターンが多い。脳内イメージと、体の可動域との齟齬、体力との齟齬、素材との齟齬、空間に出現させた時の齟齬などなどを、何が何でもイメージに寄せるか迫られる。
その場合、私は長期的に運用できそうな形に変えてしまう方である。

人間の集団が危険な形に陥っていくドキュメンタリーが興味深いのでいくつか見ているのだけど、やっぱり集団を通気よくしておくのは難しいのかな。
見かけ上は「人間」という似たような者たちで、一部意思を同じくしている場合があるが、一人一人細部に渡るまでの違い/個別性がある個体が集まっていることを(面倒かもしれないが)忘れないことが必要で、それがつまり他者への敬意ということになるのだと思う。しかしながら、友人なり家族なり、集団として最小の場合でもあんまり上手くいってないことは多いから、意識を張り巡らせておく訓練を諦めてはいけない。

終電間際の地下鉄で、ニューエラのキャップかぶった若者が、沢木耕太郎の「深夜特急」を熱心に読んでいた。

職場やアトリエの周りに火の用心の夜廻が来る。主に大人だけど、あれってどう継承されてるんだろうなと思っていたら、甥っ子たちの流行ワードが火の用心の掛け声だった。3歳にも響くグルーヴがあるんだろうか。食事中にもうきうきで叫んでいた。ちなみに彼らはお義父さんから継承されたようである。

オクテイヴィア・E・バトラー『キンドレッド』を読んだ。主人公もまたそうだが、辛抱強く進む長編だった。最近の小説は短くて、短編ドラマぽいなと思うけど、これは読み応えある小説だった。
登場人物同士の感覚が時代の差で埋まらないところ、現代でも引き続き埋まっていないところ、人種間でもジェンダー間でも存在する体験の差が、しつこいくらいに書かれていて、感情が引っ張られる部分もあった。バトラーがこの話を書こうと思った理由が最後に書かれていたけど、能力の使い方が真っ当だと思った。

あとやっぱり『アンテベラム』を思い出してしまう。こちらを先に観てたので、『キンドレッド』が原作なのかと思ってしまった。

現実は物凄い情報量に満ちているが、人間は全部を知覚することはできないので、その人それぞれの優先度が反映された知覚・認識センサーのイコライザー設定みたいなものがある気がする。その組み合わせは人によって違うから人間は複雑だと思ったりするけど、知覚できることは有限なので、やっぱり優先順位をつけるしかないため、他人と話していると、無自覚の優先順位が透けて見えることがあって面白い。

ファッションのメンズ・レディースっていつまであるのだろう。肩幅×厚みとか、身長×骨盤の幅とか、持ってる体のサイズの掛け合わせで選べる仕様だったら楽しそう。

過去作について紹介文を求められたので書いていたが、当時考えていたことを強制的に振り返ることができてありがたい。今ならまとめられること、今もうまくまとまらないこと、あれから何がわかったのか、変わったのか、書いているのは過去のことなのだけど、結局今自分がいる地点を知ることになる。そして、やり足りていないことが何なのかもまた。

思いがけず長い冬休みになってしまったので、ひたすら編み物をしている。
編み物は、絵の具と違って素材が変容しないので後戻りができるのが新鮮でもある。絵の具などにおける後戻りのできなさ=修正不可能であることが、いわば技術力として試されるものでもあり、慣れてきてしまってもいるのだけど、やっぱり新しいことをやる時のままならなさは面白い。加えてやり直せるので、素材を無駄にしない所が、何度でも練習できて良い。

今年最初の鑑賞は兵庫県美の「李禹煥」。良い感じに厳選された回顧展で見やすかった。当たり前だけど、こうやって作品の変遷を見ていくと、本人の中でテーマを見定めていくことの大事さを感じる。

多分初めて李禹煥の作品を見たのは学生の頃で、私はまだまだやりたいことがぐちゃぐちゃしていた。見たのはグラデーションのストローク一個だけ(に見える)作品で、当時はそこだけ見てるから、ここまで絞れる・削げることがめちゃくちゃ羨ましかったけど、それは一連の制作があるから出来ることなんだろう。

私もそんなのが作れる日が来ると良いな。

引き続き考えていたけど、「Pig」は良かった。いわゆる男性性の呪縛に囚われているおじさんを、おじさんが解決しにいく。力ではなく料理という、セルフケアのひとつの方法を使うところも良い。

男性性の欠点を見せつけていく映画に少し疲れていて、そこで終わったら絶望じゃんと思っていたけど、これは壮年や青年の男同士でそれを解除していく話だった。

出てくる女達も、必要以上に関わることもなく、自分のできる分野の能力を提供しておしまいだし、こういう方向性の話がもっと見たいと思う。

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今年も映画をいくつか見たけど、「NOPE」や「LAMB」、一部「RRR」も、人間が支配しきれない人間以外のものたちのパワーをぶつけてくる映画が多くて嬉しかった。
「Pig」みたいな、いわゆる男のプライドを男が壊しにかかる話があったのも良かったけど、やっぱり私は「ガンパウダー・ミルクシェイク」が今年の一番だった。拠点が図書館なところもまじ最高だし、自分を投影しながら見れるエンタメってこんな楽しいんだな!というのを思い知った一本だった。
例えば、シリアスな人間模様や問題を描いたりする映画も必要だけど、たまにこういうただただ爽快感を味わう映画も見たくなるので、元気ない時に何の不安もなくぶち上げてくれる映画は貴重だよね。

絵を描くために考えている時間と、実際に描いている時間は、別のメソッドが働いていて、描くという行為は身体的なものだし、鑑賞者は身体行為の集積を見るわけだけど、本当に見てほしいのは「見る」ではなくて、そこから「考える」なんだよな。
だから、例えば展示会場にいてお客さんと話せる時に、これは何なのか?何を表そうとしたのか?とかを聞かれると(社交辞令的な会話でもあると思うけど)、それは鑑賞として楽な道を求めすぎなのではと思っている。そして、私も答えようとしすぎている。

植物(自然)と人間の関係について考察する本を色々読むと、人間だって微生物などと混ざり合った自然の一部であるというような方向性の話が多い。それはそれで考察として間違ってはいないのだが、人間が一方的な暴力性を発揮した時代を顧みずに自然との一体感を提示されても、マジョリティがマイノリティを無化するときのやらしさみたいなものを感じて、あまり素直に乗れない。人間は人間に特化している。何が自然から人間を離してしまったのか、植物との違いは何なのかを把握せずに、ぬるっと仲間であることにするのは、少し人間に都合が良い気がする。

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