(承前)「このように当時の人びとが記すところでは、農民の間にはロマンティック・ラヴなど——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに『家庭愛』となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれに殻に閉じこもり、冷やかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである。…
 …一般には配偶者の死をこれほど深く悲しむことはなかった。相手が死ぬとわかっても、それで情がうつるということもなかったと思われる。…農民夫婦を結びつけているのは情緒というよりも経済観念であったので、妻が病にふせっても夫は医者にかかる費用をだしおしんだ」58-9頁

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「18世紀の…この若き医師[ブリゥド医師]によれば、田舎者に愛がみられないのは、生活の重荷に打ちひしがれたその日常のためであり、動物的に〈自然の成り行き〉に身をまかせた結果なのである。
 しかし、判を押したようにどの農村においてもみられる女性の男性への従属は、単に悲惨な境遇だけに原因があるわけではない。たとえば、アベル・ユーゴに描かれているブルターニュ地方の夫婦は、生きることだけで精一杯という状況にはなかったが、親密な感情的つながりをもっていたとは思えない。『妻は、家の中では女中頭にすぎない。土地を耕し、家事をし、夫が終わったあとで食事をとる。その夫の話ぶりは荒っぽく、ぶっきらぼうで、ある種の軽蔑すらうかがわれる。…』…フランス中央部にあるブルボネ地方でも、ブルターニュ地方と事情はそうかわらなかった。時代的には、少し新しくなるが、ベルナール-ラングロワ医師の証言に耳をかたむけてみよう。『この地方にも幸福な結婚をする人びとはいる。しかし、多くの人びとにとって、結婚生活は束縛にすぎない。相手に敬意を払ったり、気遣いや優しさもみられない』」57-8頁→

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「数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えていくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性役割を厳格にして、感情をできるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。『俺は俺の役割を果たす。お前はお前のことをしろ。2人とも共同体の期待どおりに生きていく。<それだけのことさ>。それで死ぬまで大過なくすごせるというものだ』。かれらは、自分たちが幸せかどうか自問することすらしなかっただろう。
 …私は、伝統社会では、ほとんどの夫婦に愛情が欠けていた(もちろん、一握りの上層ブルジョワや貴族の家庭はこのかぎりではないが)と主張しようと考えている」56頁

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「寒々とした農家やじめじめとした納屋のなかで、どのような家族の心の交流があったのか…気むずかしい使用人や病気がちの幼児にとりかこまれて、夫と妻は、どのように暮らしていたのだろうか。…次のようなスウェーデンの農民夫婦の姿のほうが真実に近いようである。『男が前を歩き、女は後を歩く、広い道でも、女は男と並んで歩いてはならず、後にさがって歩く。使用人である15歳の少年も、相手が30歳の女使用人であっても主人の娘であっても、男であるから前を歩くことには変わりない。実際に、この少年のうしろを農場主の妻が歩いているのを見ることもできる』」55-6頁
↑ K. Rob & V. Wikman (1937), Die Einleitung der Ehe, p.348.

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「家族と共同体との関係は、20世紀と18世紀とでは異なる…今日では、私的領域と公的領域との間にははっきりと線が引かれており、それを犯すのは、市民の自由に対する侵害とみなされる。伝統社会では共同体と家族とはかたく結びついており、網のようにはりめぐらされた規則が両者を安定させていたのである。

 伝統社会の家族のおかれている環境そのものが、家族の親密さを作り出す妨げになっていた。好奇心にみちた顔が〈愛情生活〉をのぞきこんでおり、家族でもない人びとがひっきりなしに家に出入りした。生活空間が狭いためにどこにでも村びとの目が光っていて、感情や愛情に対する公的な規制もきわめて強かった。家族の親密な情緒的結びつきは生まれようもなかったのである。近代夫婦が生まれてくるためには、この強固な共同体生活が解体する必要があった。世代別に世帯が分離し、また家族でない人びとを家から除外し、家族規模が小さくなり、年齢的に近い人びとによって家族が形作られてはじめて、家族の感情的一体化が生まれてくるのである。そして夫婦は自分たちのことを自分で決定するという自立性をもち、心のままに振る舞っては大変なことになるという声を追い払わなければならない」54頁

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「家族史とは、核家族と周囲の共同体との関係の歴史である」45頁

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「家族愛はまず上流階級にあらわれ、広がったのであって、貧しい人びとの間にそれが広がったの比較的最近のことである。…夫婦が愛情を確かめあうには、2人だけの寝室、第三者を気にせずに甘い愛に酔いしれることのできる寝室が必要であった。このように家屋の構造の変化は感情革命の一側面をあらわしている。しかし、感情革命のべつの側面——たとえば男女関係におけるロマンティック・ラヴの出現——は、伝統的な住環境の変化をともなうことなく、下流階級から生じてくるのである」45頁

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「植民地時代のアメリカの家屋は、設計者がイギリス出身であることを反映してか、他人に煩わされず親密な家庭生活を営むことができる場として作られている。…独立戦争の頃までには、アメリカ植民地の男女は、ヨーロッパの国では考えられないほど自由に、部外者の監視をうけることなく、性生活や感情生活を送っていたのである。もちろん、まったく自由であったわけではない。核家族であっても、建物の構造上、かれらのプライヴァシーは必ずしも完全に守られたわけではない。…
 プライヴァシーは西から東にいくにしたがって守られなくなり、プライヴァシーという考えは上流階級から下流階級にうつるにしたがって稀薄になる。中世の仕切りのない生活空間を区切って、べつべつの機能をもつ独立した部屋を最初に設けたのは富裕な人びとである」44頁

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「直系家族は2世代家族と比較すると、数的にはどのていどだったのだろうか。ヨーロッパ全土にわたる綿密な調査をおこなったあとでないと確かなことはいえないが、マイン河以南のドイツ、ロワール河以南のフランスでは、直系家族が一般的であったと思われる。…
 主要な世帯構造の第3のものは、東ヨーロッパにみられる大拡大(複合)家族である。これは、ユーゴスラヴィアでは、〈ザドルーガ〉、[ロシアの]バルト海沿岸のクールラント地方では、〈ゲジンド〉と呼ばれている」36頁

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「西ヨーロッパの他の多くの地域では、直系家族が多く、家に親族が同居しているのが普通であった。19世紀のフランスの社会学者フレデリック・ル・プレは、〈直系家族〉なる用語をつくりだし、この家族形態においては、長期にわたって世代から世代へと農地が分割されずに譲り渡されるとした。結婚と同時に農地をとりしきるようになるにしろ、妻とともに相変わらず父親の権威に服して生活するにせよ、いずれにしろ、相続権をもつ息子は花嫁を家に迎え入れ両親と同居する(もちろん、その他の息子は一片の土地も受けとらず、結婚もできなかったであろう)」32-3頁

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(承前)「ピーター・ラスレットは、イギリスの農村について、おじやおば(傍系親族)が同居している世帯はほとんどなく、祖父母の同居も少なかったことを明らかにしている。アングロ・サクソンの世界ではどちらかといえば、親族が同じ世帯に同居することよりも、近くに住むことが多かったと思われる。こうした親族の隣居がイングランドの伝統的家族生活の特徴であったことを示す事例もある。ニュー・イングランド植民地でも、親族関係にある多くの家族が隣あって住んでいたのは確かである。しかし、このことから、19世紀以前の農村生活において拡大家族(夫婦が親族と同居している)が、主流であったととうてい主張することはできない(逆説的ではあるが、むしろ近代化が進むにしたがって死亡率が低下し、祖父母が長生きして子どもと同居する可能性が高まるのである)」31-2頁

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「北アメリカとイギリス諸島は、親族をふくまない世帯がもっとも多い地域であった。たとえば、ニュー・イングランド植民地では、世帯は一般的にかなり大きかったが、その主な原因は同居する親族が多かったためではなく、子どもの数が多かったからである。デイヴィド・フラァティは、1700年頃のマサチューセッツ湾岸やロード・アイランドの典型的な家族の規模は、平均すると5.8人であったと推定している。これらの世帯には、家族にくわえて家屋共有者、種々の使用人や間借り人がふくまれているため、世帯の平均規模は大体1人分大きくなっている(全戸の3分の1に使用人がおり、全家屋の3分の1に共有者がいた)」31頁→

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[↑上記に関する原注]
「わたしが、ここで厳しく批判している著者とは、もちろんわたしの良き友でもあるピーター・ラスレットである。彼は、すでに評価の確立している著書Household and Family in Pastの序で次のように述べている。『家族史における仮説ゼロとわたしが命名しているものは、資料の現状からやむなく家族という組織は、そうでなかったということが実証されれば別であるが、常に変わることなく核家族であったと推論しなければならないことであり、〔それはこの問題についてのある独特の確信〕から生まれてくるものである』。しかし、この著作のなかで示されている報告すべてが必ずしもラスレットの意にそったものになっていない。ラスレットはさらに数頁あとで次のように述べている。『複合家族が通常の人びとの通常の生活の一般的な背景となった時期や場所があったとは、わたしが考えるかぎりにおいて正しくないということにすぎない』。しかし、バルカン諸国、バルティック海諸国、ヨーロッパのアルプス地方、中央ドイツさらに中央および南フランス…の社会史に詳しい学者であればすぐに、ラスレットは公平を失しており、修正の必要があることがわかる」原注34頁

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「核家族の存在は、どの時代についてもつぎつぎと『確認され』、そのたびに大反響がわき起こった。定説を修正しようとする者にありがちなことだが、この場合にも従来の常識をくつがえそうとするあまりいきすぎもみられた。かれらは、家父長制の支配とクランについての社会学者の幻想を修正するにとどまらず、夫婦家族——父母、子どもおよび使用人——こそがいつの時代でも、どの地域でも支配的であったと主張し、歴史的にみて常に核家族は変わりなく存在するという、かれら自身、幻想的な仮説を主張するにいたったのである」31頁

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「ロジャ・スコフィールドは、1782年頃のイングランドのベドフォドシャ州にあるカーディントン教区で息子や娘が家にとどまった確率について次のように書いている。ここでは、男子は9歳の誕生日まで両親とともに生活するのが普通であり、11歳まで学校にかよう場合もあった。10歳から14歳の男子の4人に1人が奉公にでており、15歳から19歳ではその割合は5人に4人ときわめて高くなっている。20歳はじめの男子の7人に6人ないし8人に7人はまだ奉公にでているか、もしくは結婚しており、30歳までには、ほぼ全員が結婚してしまったと思われる。…カーディントンの女子の家庭生活は男子と違っていた。学校に行く女子は3人に1人であり、15歳までに親元を離れた女子は少なかった。15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れたのに対し、女子は4分の1にすぎなかった。多くの女子は、夫に手を引かれてはじめて、親の家を離れたのであり、自分自身で働きにでることなど考えもしなかっただろう」28-9頁

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「現実には[農家で]同居する子どもの数はそれほど多くはなく、せいぜい2、3人にすぎなかった。…当時の女性は受胎可能期間中に平均10回もしくは20回妊娠したと考えられているのに、現実には、親元にたった2人しか子どもがいなかったのはなせだろうか。これには2つの理由がある。第1の理由は早死である。…
 …第2の事情は、子どもが早くから家を出て仕事についたことである」27頁

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(承前)「1790年頃のマサチューセッツ州のセーレム…でもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。セーレムの中流階級は下流階級より多くの使用人と徒弟を雇っており、出生率も高く、商人と手工業者の場合、平均すると5.9人であった。それに対して、労働者は4.6人であった。
 工業都市のノッティンガムでも労働者の家族規模は他の地域に比べて幾分大きいとはいえ、1世帯の規模はブルジョワジーよりは小さかった。…重要なのは、伝統社会の都市では『中産階級』の生活とは、多くの同居人がいることを意味していたということである。『ブルジョワ的』という言葉が小さな家族規模と仲むつまじい家庭を意味するようになるのは、近代化が旧体制を完全に解体し、近代的な仕事に従事する人びとにあふれた新都市が数多く生まれてからのことである」25-6頁

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「1795年頃のパリのポパンクール地区では、同居している子どもの平均数は、日雇い労働者の場合1.8人で、小店主の場合には2.4人であった。パリ全体でも、19世紀を通じて、この2つの階級に違いはみられ、3人以上子どもを同居させている世帯は、卸売商人では3分の1にのぼり、労働者では8分の1にすぎなかった。近代初頭のフィレンツェでも、裕福な世帯ほど大規模であったと思われる。そこでは、貧しい世帯の同居人の数は平均2.5人であったのに対して、裕福な世帯では5ないし6人であった。有力なギルドに属する手工業者の世帯構成員(平均5.5人)は、非熟練工のそれ(平均3.7人)よりも多かった。
 大陸の諸都市でも同じであった。ストラスブルクの中流階級では平均して5.1人であり、下流階級では3.8人であった。デンマーク国境に近いシュレスヴィヒ州のウーズムという小さな町でも、18世紀のチューリッヒでもそうであった。これらの地域のすべてでブルジョワ世帯の規模が大きかったのは、中流階級が家業のために使用人や手伝いを多く雇ったからであり、また同居する子供[ママ]の数も多かったからである」25頁→

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「あらゆるところで同時に起こったわけではない。両極端を例にとれば、イングランド南部はブルターニュ内陸部に比べて2世紀も早く近代世界の入口に達した。しかしながら、遅かれ早かれあらゆるところで大転換が起こったのである」22頁

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「中世史に関する最新の研究では、『伝統的』という言葉は、宗教改革からフランス革命の3世紀間にもっともぴったりとあてはまると考えられている。最近になってようやく研究者も指摘しはじめていることであるが、13世紀は、さまざまな動きがいたるところで起こり、全般的に繁栄の時代で人口がうなぎのぼりに増加し、庶民文化が開花した時代であった。しかし中世後期になると、長期にわたる不況が続き…経済面、人口面、文化面についての衰退がはじまり、それは19世紀初頭まで続く。西ヨーロッパの文明史の中で、『伝統的』という言葉で表現できるのは、この衰退と停滞の時期である。後代の民俗学者たちが『太古の昔から変わりない』と考えた人びとの価値体系や行動様式が作りあげられたのは、この時期だったからである」21頁

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