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「しかしここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ<人情的情緒的>性質をおび、だから権力が権力としてあらわれない、ということである。権威は、あたたかな人情的情緒的<雰囲気>のなかにあり、だから、同時に協同体的意識をともなっている。個々の人間の『権威』はしばしば希薄となり、家族の全体的『秩序』のみが全体に対し『権威』をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的な恭しい畏敬は支配しないで、<くつろいだ>・<なれなれしい>・<遠慮のない>雰囲気が支配し、それを、且つそれに媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。
 …儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によって——したがってまた、政治権力や法律による強制によって——維持され得るしまた維持される必要があるが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必要もない。ここでは、人情・情緒が決定的である」117頁

「しかし、だからと言って、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかと言えば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省を許さぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、『外から』規定されることなく自らの『内から』の自律によって媒介されるところの『道徳』が支配するからである。だから、ここでは何びとも<個人として>行動することはできないし、<独立な個人としての>自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な秩序の雰囲気につつまれ、そこに支配する<必然性の客体>として、自らを意識しなければならない。
 …すべての意識と行動との根拠であり原因であるのは<雰囲気>である。何びとにも責任感はなく、責任があるのはただ雰囲気である。またここでは<近代的>な人格の相互尊重も存在しない。そこには専制支配はないが、その関係は自主的な個人によって媒介されているのではなく、むしろ自主的な個人を不可能にするところの全体的雰囲気のなかにおいてのみ個人は存在しているからである」117-8頁

王朔柏・陈意新(2004)「从血缘群到公民化——共和国时代安徽农村宗族変迁研究」、『中国社会科学』1、183-93頁
=黄蘊・陳玲・平井晶子訳「血縁集団から市民化へ——人民共和国期における安徽省農村宗族の変遷」、123-49頁

「共和国時代の国家権力が農村に浸透した際には宗族が存続したが、反対に農村における国家権力が弱体化した際に、宗族が強化されたのではなく解体された」125頁

「宗族ならびに宗族制度は、村レベルで維持されることになったのみならず、生産大隊のリーダーシップとしての役割を果たすか、あるいはそれに対するパランスをとっていた。人民公社が設立された際に、老瞿村と他の8つの村は一緒になって生産大隊を形成した。そのうち、張姓・瞿姓・蔡姓の宗族が、この順番で大きな人口をもっていた。そのため、生産大隊の3つのおもな役職はこの3大宗族姓にそれぞれ割り当てられた。…
 土地改革から人民公社の設立まで、国家は中国農村部の政治システムを完全に作り変えた。それはいかなる意味においても、地主階級のエリートが地域の権力を支配する可能性を排除し、制度化された宗族システムに終止符を打った。しかし、その変革は農民たちの日常生活のスタイルを変えることはなく、その結果、この日常生活のあり方から生じる宗族を基盤とする組織とその観念、リーダーシップの構造を除去することはなかった。…伝統的な宗族の構造を基盤とする人々が、新しい制度下でもリーダーを務めたということである。このことは宗族と政治権力の合体を意味する。毛沢東は井崗山において、すでにこうした新しい政治制度と伝統的社会組織との同質性を見抜いていた。彼によれば村落における党の組織は、居住地域の関係でしばしば同じ姓の人が1つの党支部を構成しており132-3

「[大躍進中の]相対的に低い死亡者数は、宗族のリーダーシップによるものであった。1960年3月までに腐った山羊が食べ尽くされた。麦とエンドウ豆の苗が生え始めていたので、村人は生き延びるために、まだ育ちきっていない苗を食べたに違いない。人民公社は農作物の苗を食べることを厳しく禁止していた。リーダーである于紹才と于紹林は、農民たちに自分たちの前では食べないようにと指導した。今でも東于村の中年以上の飢饉を経験した農民たちは皆、生き延びることができたのは農産物の苗を食べたおかげだと認識している」135頁

「律川村においても、宗族リーダーが存続した。このことは大躍進期の飢饉時において農民たちが生き延びる助けとなった。律川村では宗族リーダーは外部のリーダーには取り替えられなかった。この村は自然条件に恵まれ農作物の不作を経験してはいない。しかし、1959年から1960年に人民公社はすべての食糧を徴収していき、食糧の供給はきわめて限られていた。これは人為的な理由による飢饉を引き起こした。しかし、程金華などの宗族リーダーは、その智慧と宗族の結束力をもって困難を乗り越えることができた。第1に、人民公社から稲の種の配給があった際に、種を食用とすることを罰さず、飢餓から逃れるために種もみを食べさせた…次に、リーダーたちは勇敢にも収穫量を低く申告した。それでもやはり、過少申告と転用では限られた量の食物しか確保できず、食堂を数日しか運営できなかった。結果的に律川村のリーダーは食物を隠すという第3の戦術を使用した。人々は以前に祠堂であった食堂に大量の棺桶をおき、その中に大量の里芋を隠した…伝統的に祠堂にある棺桶に外部の者が手を触れることは不適切であると考えられていた…大躍進期に律川村では餓死者は出なかった。祖先の庇護を受けた里芋はすべての子孫たちの命を救った。このように宗族リーダーの存続、宗族の結集力がこの奇跡を起こし135

「1949年から1979年までの間、政治権力を用いた国家による再構築の努力は、国家と農民の間に理想的な社会契約を構築することを目的としていた。そのような再構築は宗族システムの解体を要求していた。なぜなら新しい社会契約の安定性は、農民の忠誠心が伝統的な血縁に対するものから現代の国民国家へのそれへと切り替えることにかかっていたからだ。しかし、老瞿村・東于村・律川村の研究は、政府は宗族によるリーダーシップを一時的には破壊したが、伝統的な宗族共同体そのものが根本的に揺らぐことはなかったことを明らかにした。…農民は、中国社会の近代化のプロセスの中でもっとも近代性を備えておらず、かつもっとも権力がない集団であり、農民たちの利益は守られる必要があった。そのために、大躍進運動や粛清運動といった経済政策や政治運動に起因する国家による社会契約の破壊が進んだ際には、農民たちは伝統的な社会資源である宗族に頼るしか、自分自身の利益を守り生き延びるための方法はなかった。さらに、農民たちは、大躍進運動から教訓を得て、その団結力は、国家権力の増長に伴い皮肉にも伸長した。…政治権力は、血縁と地縁を基盤とする個人間の連帯を切断することができなかった」140頁

キム・ヘギョン(2009)
=山本耕平・小林和美訳「『核家族』をめぐる言説の競合——朴正煕政権下における核家族言説の類型と変遷」、150-67頁

「韓国で『核家族』という語が最初に現れたのは、産業化が始まった1960年代半ばであり、広く使われ出したのは1970年代からである」153頁

Dube, Leela. (1986) “Seed and Earth: The Symbolism of Biological Reproduction and Sexual Relations of Production,” in Leela Dube, Eleanor Leacock and Shirley Ardener (eds.), Visuality and Power: Essays on Women in Society and Development, Oxford University Press, pp.22-53.
=長岡 慶・押川文子訳「種子と大地——生物学的再生産と生産における性的関係をめぐる象徴性」、170-97頁

「法、社会、通過儀礼を記述する古代およびその後のサンスクリット文献では、受胎という現象は女性の畑に落ちる男性の種子と表現されている。…結婚のおもな目的は子孫を得ることとされたが、特に男児後継者を得ることに明確な重点がおかれていた」171頁

「タンバイアは、マヌ法典における種子と畑の相対的重要性が、さまざまな出自を異にする性的結合(上昇婚と下降婚に大別される)によって生まれる子孫の地位の決定にもつ含意を考察した。女性が男性の1つ下の地位にある結合から生まれた子どもの地位については、法典の間に意見の違いがあり、子どもに父親と同じカースト地位を認めようとしたものもある。一般的には上昇婚は承認される一方で、下降婚は承認されなかったといえる。なぜなら、上位の種子が下位の畑に落ちることはありうるが、下位の種子が上位の畑に落ちることは許されないからである」173頁

「インドでは、少数の例外地域を除けば、父系出自原則が、集団への所属、相続の方向、および継承権の基本とされている。また結婚後の一般的な居住形態は父系拡大家族である。女性に認められてきた権利は、被扶養権のみだった。大部分の地域のヒンドゥー教徒に適用されてきたミタクシャーラ法体系によれば、男児は出生時に先祖代々の財産に関する譲渡することのできない権利を得る。相続財産共有の観念がこの法の運用を統御してきた」184頁

「インドのさまざまな地域の民族誌や文献は、ウルスラ・シャルマが『土地は本来的に男性形資産であると特定するイデオロギー』…と語ったものの存在を示している。娘に結婚に際して小さな土地を与えることが慣習である地域でさえ、それは財産の取り分ではなく贈与とみなされていることは重要である」185頁

「父系アイデンティティは所属集団の決定や資源へのアクセス権において決定的に重要である。「『種子の流れは財産の流路を拓く』とは、あるインフォーマントが父親ー息子の絆の生物学的および社会的な重要性を端的に要約した言葉である」…子どもに対する父親の権利は同じ論理の別の側面であり、重要な人的資源を確保する権利を示している」187頁

義江明子(2005)『つくられた卑弥呼——『女』の創出と国家』筑摩書房、13-109頁

「<滅ぼされた土蜘蛛八十女たち>
 …肥前国風土記に描かれているのは、いずれも頑強に抵抗して滅ぼされた女性小首長の姿ということになる。…各地に女性の小首長がいて、たてこもり、抵抗して、殺された、という話が、ごく自然に通用する伝承世界だった、ということはわかる」202-3頁

「播磨国風土記では、女神と男神の牧歌的な神話の形ではあるが、生産・労働・政治に関わる、首長としての日常的活動の側面をうかがいみることができた。…古代には男性首長も女性首長もいて、その首長としての機能には、性別による違いや分担はあまりなかった、とみてよいのではないだろうか」210頁

「前期の首長墳について、その分析結果をまとめると、おおよそ次のようになる。
 ・古墳時代前期(5世紀中葉以前)において、各地域の中心となる首長墳の中核部分に熟年女性が単独で埋葬されている例、複数埋葬のうちの中心人物が熟年女性である例などを含めて、女性首長の存在は、九州から関東にまておよぶ。
 ・副葬品からみて、地域政治集団の女性首長は祭祀権だけではなく、軍事権・生存権をも掌握しているとみられ、同時期の男性首長と同様の主張権を持つ。
 ・小集団を背景とする女性小首長の中には、祭祀的・呪術的性格の濃いものも含む。
 ・成人男女2体の首長埋葬や、男性首長につぎ第2の地位を女性埋葬が占める例も多く、首長権の一部を分担した女性が広く存在した。
 ・男性首長の単独中心埋葬は、女性首長例に比べてわずかに多い程度で、男女2体を中心部に埋葬する例よりは少ない。
 ・大王墓を含む巨大古墳の多くは、現在も発掘が制約されていて、被葬者の性別を判断できない。
 …日本の古代に、女性首長がまれな例外としてではなく、男性首長と肩を並べて広く存在していた、ということだけはほぼ間違いなくいえよう。『風土記』の伝承には、それを生み出すだけの現実的背景があったのである」212頁

「<女性首長と武器・武装>
 弥生から古墳時代前期を通じて、女性首長が広く存在していたこと、彼女たちは、もっぱら祭祀を担う巫女的首長とか男性首長の補佐だったというわけではなく、生産や流通にもかかわる権限を持ち、政治的同盟を結ぶ主体だったということは、現在では、かなり古代史学界の共通認識となってきた。
 問題は、女性首長と軍事の関わりをどうみるか、という点である。…
 考古資料を総合していえることは、兵士は一般的には男性だったらしいが女性もいた、甲冑を身につけての陣頭指揮は男性が行っていたらしいが武器を服装する女性首長も存在した、ということだろう」214頁

「倭人伝では、『合同』の場に女も男も全く同様に参加し、『父子』の間でも、『男女』の間でも、そこでの着席順や行動のしかたに差がないという。『魏志』を参照して書かれた『後漢書』倭伝では、『ただ会同に男女別なし』とあって『父子』の語がないが、『男女』が区別なく参加することは明記されている。中国の史書編纂者にとって、女も参加する倭人社会の集会は強い印象があったのだろう。…高句麗と倭では、『会同』の構成と質がかなり異なることがわかる」222頁

「律令国家体制が確立し政治権力が上部に集中した奈良時代(8世紀)にあっては、村の神祭りは『国家の法』を”お触れ”として村長から説き聞かせられる場にすぎなかった。しかし、小さなクニがいくつか連合して1つのまとまりをもった政治権力を生み出しはじめたばかりの邪馬台国の時代(3世紀)には、『会同』はもっと重い政治的機能を持っていたはずである。そしてそこに”女”はいたのである」224頁

「『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』といった書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた男もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界などには残っている)。男女どちらかが、自分の気にいった相手に『あなた、わたしのつれあい(ツマ)になってくれませんか?』と求愛・求婚の問いかけをし、相手がOKすれば、ただちに2人はむすばれる。結婚生活がはじまっても、普通、すぐには同居しない。それぞれの親・兄弟と生活・労働をともにし、夜になると相手方に通い、朝には帰る。男女どちらからの通いもあるが、多くは男が通った。子どもが生まれると、自然の成り行きとして、母方で育てられる。子どもが何人か生まれるころには同居するが、ずっと通いのこともあり、同居に至る前に関係が切れることも、同居後に別れて出ていくことも頻繁にあった。夫婦関係は、のちの時代とは比べものにならないくらい、流動的だったのである」228頁

「毎晩、同じ相手のところに行くわけではないので、男は複数の相手に通うことができる。気持ちが冷えてきたら、通わなくなるだけである。女も、これまで通ってきていた相手との関係が薄れれば、別の相手を通わせる。ただし、前の相手がまた思い直して通ってくることもあるだろう。その場合には、一時的にせよ、”多夫”現象も生じることになる。実際、そうした事例はめずらしいものではない。女性の性関係が1人の夫に限定され、それ以外の関係をいわゆる密通・姦通として厳しい制裁の対象とする社会慣行が成立するのは、はるかのち、平安後期以降のことである」228頁

「そもそも、史実をみていけば、祭祀も神がかりも女性だけの役割や特性ではない。古代においては、男女1組の神職者が、現実の政治や経営と一体となった祭祀を掌っていた。巫女も、一般には未婚に限定されてはいなかった。男性神職の力が強まり、社会全体での女性の地位低下が露わになるにつれて、それに反比例して、一部女性の権威化・神秘化がはじまるのである」238頁

「律令制以前には、男女を交えた集団労働が行われ、生産物は集団的に貢納されていた。男女個々人を厳格に台帳上で識別する必要はなかったのである。しかし、律令租税制のもとでは、調庸は人頭税として成人男性の一人一人に課される。実際には女性の生産物であっても、男性の名前で納められ、効率的・計画的な国家財政システムの構築が可能になった。徴兵制の成立と戸籍制度の成立は密接不可分で、成人男性を画一的に徴発する律令軍団制も同時に整った。奴婢は氏姓をもたないことで一般良民と区別され、さらに男女で法制上の扱いが異なるので、戸籍上の婢の名前にはすべて『メ』がついている。女性名接尾辞『メ』は、それまで集団として生存していた人々の一人一人について、生物的に男・女の区分(セックス)を判定し、それを公的負担上での”男””女”の区分(ジェンダー)に転化・明示する意味をもつ記号だったのである」243頁

「同じく7世紀末に、それまで男女共通の『王』(みこ)号で呼ばれていた王族男女に、皇子(みこ)と皇女(ひめみこ)という男女で異なる称号が設定され、待遇に明確な差が設けられた。『氏々男女』として男女共労/協働で朝廷に奉仕してきた豪族層男女も、男性官人(トネ)と女性宮人(くにん)(ヒメトネ)として職掌や出仕先が明確に分けられ、身分・待遇に大きな差が設けられた。女性名接尾辞『メ』『ヒメ』の画一的付加は、公的制度での男女区分の成立と明確に対応している。
 『風土記』が編纂されたのは、まさにこうした転換がなされ、それが規範として社会に浸透しはじめる8世紀前半のことである」243頁

官 文娜(2005)『日中親族構造の比較研究』思文閣出版、74-103頁

「いわゆる『姉妹型一夫多妻婚』とは1人の男性の複数の妻が姉妹同士であることを指している。そのような婚姻形態は、古代の世界各地のさまざまな民族における一夫多妻婚の段階にしばしば見られる。例えば…中国の周代の『腰制』はそれである。そしてこのような婚姻形態は春秋時代にも引き続き見られた。…日本の『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『先代旧事本紀』などの古代史料の中でも、こういった婚姻形態は枚挙にいとまがない。…中国古代の魯と斉の国の間の婚姻は、日本の古代文献に記載される『姉妹型一夫多妻婚』という婚姻形態からいえば同じである。しかし中国の場合『姉妹型一夫多妻婚』を行う一方で『同姓不婚』という婚姻規則を貫いているのに対し、日本古代では『異母兄妹婚』が普遍的に見られることから、両国の婚姻形態・婚姻規則は異なる性質を持ったものであるといえる」246-7頁

「父系制社会では父方平行イトコ婚、母系制社会では母方イトコ婚が禁忌される。父の兄弟とその子供および母の姉妹とその子供は自己と同じリネージの人間であると考えられているため、平行イトコ婚が禁止されている社会では、社会的血縁関係は父系と母系に分かれるばかりでなく、父系親族・母系親族どちらもがそれぞれリネージとなり得る。つまり血縁集団構成員資格(membership)の継承・伝達においては父系と母系が独立した位置に置かれているのである。このような血縁構造は『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』/bilinear filiation)といわれる。この『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』)はすべて平行イトコ婚を禁止し、父と母の血統が分けられるのを前提としているのである」253頁

「中国古代の魯・斉両国間の婚姻は生物学的に近親婚である。しかし、『同姓不婚』の婚姻規則は、両国間で行われたような『姉妹型一夫多妻婚』による近親婚を父系宗族の範囲外で行うことにした。このような族外婚制は血縁親族の構成員を血族と姻族に分け、父系と母系という異なる血縁系統に分けるという重要な役割を果たす。まさにこのような意味において、中根千枝氏は『族外婚』を父系制・母系制と連動した重要な婚姻規則であると考えている。
 中国古代における『同姓不婚』を前提とする『姉妹型一夫多妻婚』とは異なり、日本古代社会では『姉妹型一夫多妻婚』と同時に『異母兄妹婚』も広く行われていた。…このような婚姻は平行イトコ婚でも交叉イトコ婚でもなく、父方から見ても、母方から見ても文化人類学的には族内婚と見なされる。このように日本古代社会における『姉妹型一夫多妻婚』は『異母兄妹婚』と同時に現われるところにその重要な特徴がある。…日本では血縁構造を父系・母系に分かつことはできない。それは『母系制』『父系制』『双系制』のいずれでもない。つまり『出自』系統は持たない。無系的および血統上での未分化のキンドレッドの範疇に属するべきものである」255頁

「日本では、女子も祖先の血統を受け継ぎ、結婚後も男性と同等な『血縁集団構成員資格(membership)』を有したということである。皇族には、同一祖先の下の男性と女性が含まれるということになる。…したがって、こうした血縁集団は血縁の『系統』を持たず、それゆえ『母系制』『父系制』のいずれでもない。そして『双系制』は単系を前提としている以上、日本古代の血縁集団は『双系制』でもなかったはずである。
 また、この社会では、父の兄弟または子女との婚姻が普遍的なものであったために、西野[悠紀子]氏は『父系近親婚』と名づけた。しかし著者は、このような婚姻形態のもとでは必然的に父方の近親婚だけでなく、母方の姉妹とその子女との近親婚も存在していたと考える」262頁

「『純血統』という概念は、民族によってまったく異なった実態を持ち、性格の異なった婚姻形態によって規定されている。日本古代の天皇家が固執した貴い、神聖にして侵すべからざる『純血統』には、同じ血縁集団内の男女、および彼らと婚姻関係を持つあらゆる血縁親族が含まれていた。この『純血統』を維持するのは天皇家『一族』の内婚である。このような婚姻の結果、父系・母系とその親族はみな同一血縁集団に属することになる」263頁

「中国では『同姓不婚』という婚姻規制によって、その血縁集団構造が典型的な父系単系出自集団となった。これに対して、日本古代では同父同母の兄妹婚は禁忌として排除されたが、同父異母・異父・同母の兄妹は通婚範囲内にあった。しかも女性を血統上排除するという中国のような規制がなかったために、血縁は父方母方双方を通じて無限に拡散することになった。ゆえに、日本では祖先からの血縁の『系統』をたどるような出自集団が形成されなかった。したがって日本古代社会の血縁集団は無系あるいは父母双方の血統が未分化の状態にあるキンドレッド構造であり、それ以外の母系制・父系制・双系制出自集団や父母双方の血統が分化した『双方親族集団』とはなりえなかった。日中両国の互いに異なる血縁集団の構造はそれぞれ異なる婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである。婚姻形態・婚姻規制が異なれば形成される血縁集団の構造も異なる。血縁集団の構造は直接に婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである」264頁

Đô Thai Đông. (1990) “Gia đinh truyên thông va nhưng biên thai ơ Nam Bô Viêt Nam,” Tap chi Xâ hôi hoc 3(21), pp.9-14.
=渡邊拓也・加藤敦典訳「ベトナム南部における伝統的家族の変容」、283-95頁

「日本の伝統的家族は、社会政治的な制度というよりはむしろ、ビジネスのためのユニットだったようなのである。儒教道徳は、もともと中国では政治的な目的を備えていたのだが、日本では経済的目標へと方向づけられ、家父長はビジネスリーダーだった。他方、両者の間のきわめて示唆的な類似点は女性の地位が低いことであり、これは大部分において儒教からの影響だったといえる。
 …ベトナムの伝統的家族は中国の大家族にみられたような社会政治的制度の性質を備えてはいなかった。…各村落は血縁によって直接結ばれた核大家族(親族集団)の成員によって構成される村の諮問会議(族表〔tôc biêu〕)という独自の自主管理のメカニズムももっていた。儒教は、こうした村落共同体の日々の活動において、比較的小さな影響力しかもっていなかったといえる。…
 こうした村落組織において、家族の一般的形態は準ー核家族(semi-nuclear family)とよべるような何かだった。両親と祖父母は一番上の息子と同居し、他の息子や娘たちは原則、結婚して別の家庭を築くのが習わしだった。…血縁で結ばれた拡大家族(ゾンホ〔dong ho〕)のつながりの強さは、実際には感情と相互扶助の側面だけにしかみることができなかった」286頁

「宗族をめぐる子どもたちの序列は、南北でずいぶんと違っている。まず南ベトナムでは『長男』や『長女』を表す特定の言い方がない。一番上の子は『次男』や『次女』、つまり2番目の子とよばれるのである。そしてこの序列にもとづいてさらに下の子どもたちが数えられ、最後は『末子』となる。北部なら、子どもたち世代の代表者はあくまで長子であって、より多くの遺産を相続すると同時に、年老いた両親の世話と先祖祭祀の責任を負う。これと対照的に、南部では、この役目を引き受けるのは末子となる。両親は末子の家に同居し、その死後の供養をするのも末子なのである。息子がいない場合には末娘がその役に当たることになるが、この場合はふつう末娘の結婚相手(義理の末子)が供養を行うことになる。遺産相続はふつうすべての子どもたちの間で均等に分割されて行われる。もしいくぶんかの優先権が与えられることがあるとすれば、それはやはり末子に対してである。したがって南部においては、年長の者に敬意を払うことが当然視されている一方で、『長子優先(trương thương)』の原則が何らか実効性をもっていないことになる。そして、まさにこうした事実が、南部の農村部において、家族の核家族化のプロセスを容易に加速させたといえる」291頁

「子どもたちは、父方の祖父母と同じように母方の祖父母を敬愛するよう教育される。このようにして南部では、家族における女性および妻の地位が向上し、女性のふるまいに関する儒教の影響力も大幅に弱められていったのである」292頁

フォロー

「モデルとしての直系制家族は、親と1組の子夫婦との世代的に更新される同居に支えられた世帯であるとともに、稼働成員を基幹要員として経営し世代的に継承される家業をもつ、1個の事業体であった。…
 モデルとしての直系制家族は、家と呼ばれる。家が事業体として、とくに保険機構として完結しないときに備えて、親族や同じ集落の家々と互助共同の組織をもった。それが親族的もしくは地域的家連合と呼ばれるものであって、具体的には同族、シンルイ、組や講、オヤブンコブンなどの名称で知られている。
 家は世帯であり事業体であり、また保険機構であったから、生活共同体と呼ばれる。共同体を維持するために、家長および家の慣行が成員の行動を制約することになった。また、家連合が集中する一定の地域は、家をめぐる第二次的保険機構としてしばしば共同体と呼ばれ、その存続に必要な規則や生活慣行が住民の行動を秩序づけた」404頁

「<モデルとしての夫婦制家族>
 夫婦制家族は夫婦1代きりの家族であって、次代への継承の観念を欠く現代の都市核家族にこのモデルを見出すことができる。就業形態は被用者としての就労であることから、家族は消費を共同する世帯にとどまり、もはや1個の事業体をなさない。それでもなお第一次的な保険機構であるが、成人の成員が少ないため、かつての直系制家族のように広範な保険機能を果たすことができない。…
 それでは、直系制家族が家連合の互助と強力に守られることによって保険機構としてほぼ全きを得たように、夫婦制家族にも家連合に類するものがあり、それによって脆弱な保険機能が補完されているのであろうか。——答えはさしあたり否に近い」404頁

「アメリカにおける都市家族の研究は、核家族を取り巻く親族関係網kin family networkの存在を実証的につきとめてパーソンズ説[孤立的核家族論]を批判するとともに、第一次集団が官僚制組織と機能的に相補関係にあることを理論的に解明することによって、親族関係網の意義を確定した。…
 親族関係網をE. リトウォクは修正拡大家族modified extended familyと呼んで古典的拡大家族と区別した。古典的拡大家族とは、父親の家長的権力のもとに密接な生活関連をもつ複数の近親核家族の近居集団である。これに対して修正拡大家族とは、ほぼ対等の関係で接触を保つ複数の近居・遠居近親核家族群である。この知見を日本に移して翻案すればどうなるか。まず古典的拡大家族に嗣子同居の属性を加えてこれを家というなら、修正拡大家族の日本型には2種類あるといわなければならない。第1は、1人の既婚子と同居しながらも生活に世代分離のある修正拡大家族であり、第2は、どの子とも同居せずただ近居して比較的密接な生活関連をもつ近居拡大家族である」405頁

「モデルとしての夫婦制家族は、修正直系家族よりは近居拡大家族になじみやすく、これをつくって第二次的保険機構にしようとする。それにしても、近居拡大家族の構成単位は保険機能の脆弱な核家族であるから、第二次的保険機構に多くの手段的役割を期待できない。フォーマルなケア組織とクライエントをつなぐケア役割ならびに表出的役割ぐらいが、近居拡大家族にも担いうるものであろう。したがって、市場サービスに加えて社会保障サービスの発達が前提となるのである」405-6頁

伊慶春(Yi Chin-Chun)・呂玉瑕(Lu Yu-Hsia)(1999) “Who Are My Family Members? Lineage and Marital Status in the Taiwanese Family,” American Journal of Chinese Studies 6, pp.248-78.
=Sandrovych Tymur・山本耕平・平井晶子・陳玲訳「家族とは誰のことか——台湾家族における系譜関係と婚姻状況」、412-31頁

「〈『家(Chia)』と家族〉…
 中国語で『家庭(Chia-T’ing)』と訳される家族という概念は、実際には外国から輸入されたものだといわれてきた…これまでのところ適切な英訳がなかった家こそが、『家族』の真の本質である。家族研究者はまた、1947年に費孝通が提案したように、家の定義には伸縮性があるという点に合意している。家は、もっとも近しい夫婦家族単位(conjugal unit)のメンバーのみに主観的に限定されることもあれば、同じ父系親族集団に属するメンバーや、出身地が同じ人、同じ政治的利害関係にある人にまで拡大されることもある。王崧興は、家という概念はその定義が柔軟であるのみならず、家庭(domestic unit)と『家族(ジャズー、family)』という概念では性質が異なることを示した。王によれば、これら相互に関連する2つの概念の根本的な違いの根底には、中国の家族制度に埋め込まれた構造的な特性があるという。つまり家庭は家族分裂の産物であり、社会組織の不可欠な基本単位として、その重要な役割において本質的に排他的な性格をもつが、『家族』は、家族融合の自然な発展過程から生じた概念的な単位であり、本質的に弾力的で非固定的である」414-5頁→

(承前)「既婚の兄弟の房はルーツが同じということで家族が融合するように、父系継承が存在することで『家族』のメンバーシップを定める根本的なルールが維持される…したがって同じ姓をもつ親族集団、(父系親族集団)のネットワークに関係するあらゆる親族関係が、『家族』という概念には含まれうる」415頁

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