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キム・ヘギョン(2009)
=山本耕平・小林和美訳「『核家族』をめぐる言説の競合——朴正煕政権下における核家族言説の類型と変遷」、150-67頁

「韓国で『核家族』という語が最初に現れたのは、産業化が始まった1960年代半ばであり、広く使われ出したのは1970年代からである」153頁

Dube, Leela. (1986) “Seed and Earth: The Symbolism of Biological Reproduction and Sexual Relations of Production,” in Leela Dube, Eleanor Leacock and Shirley Ardener (eds.), Visuality and Power: Essays on Women in Society and Development, Oxford University Press, pp.22-53.
=長岡 慶・押川文子訳「種子と大地——生物学的再生産と生産における性的関係をめぐる象徴性」、170-97頁

「法、社会、通過儀礼を記述する古代およびその後のサンスクリット文献では、受胎という現象は女性の畑に落ちる男性の種子と表現されている。…結婚のおもな目的は子孫を得ることとされたが、特に男児後継者を得ることに明確な重点がおかれていた」171頁

「タンバイアは、マヌ法典における種子と畑の相対的重要性が、さまざまな出自を異にする性的結合(上昇婚と下降婚に大別される)によって生まれる子孫の地位の決定にもつ含意を考察した。女性が男性の1つ下の地位にある結合から生まれた子どもの地位については、法典の間に意見の違いがあり、子どもに父親と同じカースト地位を認めようとしたものもある。一般的には上昇婚は承認される一方で、下降婚は承認されなかったといえる。なぜなら、上位の種子が下位の畑に落ちることはありうるが、下位の種子が上位の畑に落ちることは許されないからである」173頁

「インドでは、少数の例外地域を除けば、父系出自原則が、集団への所属、相続の方向、および継承権の基本とされている。また結婚後の一般的な居住形態は父系拡大家族である。女性に認められてきた権利は、被扶養権のみだった。大部分の地域のヒンドゥー教徒に適用されてきたミタクシャーラ法体系によれば、男児は出生時に先祖代々の財産に関する譲渡することのできない権利を得る。相続財産共有の観念がこの法の運用を統御してきた」184頁

「インドのさまざまな地域の民族誌や文献は、ウルスラ・シャルマが『土地は本来的に男性形資産であると特定するイデオロギー』…と語ったものの存在を示している。娘に結婚に際して小さな土地を与えることが慣習である地域でさえ、それは財産の取り分ではなく贈与とみなされていることは重要である」185頁

「父系アイデンティティは所属集団の決定や資源へのアクセス権において決定的に重要である。「『種子の流れは財産の流路を拓く』とは、あるインフォーマントが父親ー息子の絆の生物学的および社会的な重要性を端的に要約した言葉である」…子どもに対する父親の権利は同じ論理の別の側面であり、重要な人的資源を確保する権利を示している」187頁

義江明子(2005)『つくられた卑弥呼——『女』の創出と国家』筑摩書房、13-109頁

「<滅ぼされた土蜘蛛八十女たち>
 …肥前国風土記に描かれているのは、いずれも頑強に抵抗して滅ぼされた女性小首長の姿ということになる。…各地に女性の小首長がいて、たてこもり、抵抗して、殺された、という話が、ごく自然に通用する伝承世界だった、ということはわかる」202-3頁

「播磨国風土記では、女神と男神の牧歌的な神話の形ではあるが、生産・労働・政治に関わる、首長としての日常的活動の側面をうかがいみることができた。…古代には男性首長も女性首長もいて、その首長としての機能には、性別による違いや分担はあまりなかった、とみてよいのではないだろうか」210頁

「前期の首長墳について、その分析結果をまとめると、おおよそ次のようになる。
 ・古墳時代前期(5世紀中葉以前)において、各地域の中心となる首長墳の中核部分に熟年女性が単独で埋葬されている例、複数埋葬のうちの中心人物が熟年女性である例などを含めて、女性首長の存在は、九州から関東にまておよぶ。
 ・副葬品からみて、地域政治集団の女性首長は祭祀権だけではなく、軍事権・生存権をも掌握しているとみられ、同時期の男性首長と同様の主張権を持つ。
 ・小集団を背景とする女性小首長の中には、祭祀的・呪術的性格の濃いものも含む。
 ・成人男女2体の首長埋葬や、男性首長につぎ第2の地位を女性埋葬が占める例も多く、首長権の一部を分担した女性が広く存在した。
 ・男性首長の単独中心埋葬は、女性首長例に比べてわずかに多い程度で、男女2体を中心部に埋葬する例よりは少ない。
 ・大王墓を含む巨大古墳の多くは、現在も発掘が制約されていて、被葬者の性別を判断できない。
 …日本の古代に、女性首長がまれな例外としてではなく、男性首長と肩を並べて広く存在していた、ということだけはほぼ間違いなくいえよう。『風土記』の伝承には、それを生み出すだけの現実的背景があったのである」212頁

「<女性首長と武器・武装>
 弥生から古墳時代前期を通じて、女性首長が広く存在していたこと、彼女たちは、もっぱら祭祀を担う巫女的首長とか男性首長の補佐だったというわけではなく、生産や流通にもかかわる権限を持ち、政治的同盟を結ぶ主体だったということは、現在では、かなり古代史学界の共通認識となってきた。
 問題は、女性首長と軍事の関わりをどうみるか、という点である。…
 考古資料を総合していえることは、兵士は一般的には男性だったらしいが女性もいた、甲冑を身につけての陣頭指揮は男性が行っていたらしいが武器を服装する女性首長も存在した、ということだろう」214頁

「倭人伝では、『合同』の場に女も男も全く同様に参加し、『父子』の間でも、『男女』の間でも、そこでの着席順や行動のしかたに差がないという。『魏志』を参照して書かれた『後漢書』倭伝では、『ただ会同に男女別なし』とあって『父子』の語がないが、『男女』が区別なく参加することは明記されている。中国の史書編纂者にとって、女も参加する倭人社会の集会は強い印象があったのだろう。…高句麗と倭では、『会同』の構成と質がかなり異なることがわかる」222頁

「律令国家体制が確立し政治権力が上部に集中した奈良時代(8世紀)にあっては、村の神祭りは『国家の法』を”お触れ”として村長から説き聞かせられる場にすぎなかった。しかし、小さなクニがいくつか連合して1つのまとまりをもった政治権力を生み出しはじめたばかりの邪馬台国の時代(3世紀)には、『会同』はもっと重い政治的機能を持っていたはずである。そしてそこに”女”はいたのである」224頁

「『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』といった書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた男もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界などには残っている)。男女どちらかが、自分の気にいった相手に『あなた、わたしのつれあい(ツマ)になってくれませんか?』と求愛・求婚の問いかけをし、相手がOKすれば、ただちに2人はむすばれる。結婚生活がはじまっても、普通、すぐには同居しない。それぞれの親・兄弟と生活・労働をともにし、夜になると相手方に通い、朝には帰る。男女どちらからの通いもあるが、多くは男が通った。子どもが生まれると、自然の成り行きとして、母方で育てられる。子どもが何人か生まれるころには同居するが、ずっと通いのこともあり、同居に至る前に関係が切れることも、同居後に別れて出ていくことも頻繁にあった。夫婦関係は、のちの時代とは比べものにならないくらい、流動的だったのである」228頁

「毎晩、同じ相手のところに行くわけではないので、男は複数の相手に通うことができる。気持ちが冷えてきたら、通わなくなるだけである。女も、これまで通ってきていた相手との関係が薄れれば、別の相手を通わせる。ただし、前の相手がまた思い直して通ってくることもあるだろう。その場合には、一時的にせよ、”多夫”現象も生じることになる。実際、そうした事例はめずらしいものではない。女性の性関係が1人の夫に限定され、それ以外の関係をいわゆる密通・姦通として厳しい制裁の対象とする社会慣行が成立するのは、はるかのち、平安後期以降のことである」228頁

「そもそも、史実をみていけば、祭祀も神がかりも女性だけの役割や特性ではない。古代においては、男女1組の神職者が、現実の政治や経営と一体となった祭祀を掌っていた。巫女も、一般には未婚に限定されてはいなかった。男性神職の力が強まり、社会全体での女性の地位低下が露わになるにつれて、それに反比例して、一部女性の権威化・神秘化がはじまるのである」238頁

「律令制以前には、男女を交えた集団労働が行われ、生産物は集団的に貢納されていた。男女個々人を厳格に台帳上で識別する必要はなかったのである。しかし、律令租税制のもとでは、調庸は人頭税として成人男性の一人一人に課される。実際には女性の生産物であっても、男性の名前で納められ、効率的・計画的な国家財政システムの構築が可能になった。徴兵制の成立と戸籍制度の成立は密接不可分で、成人男性を画一的に徴発する律令軍団制も同時に整った。奴婢は氏姓をもたないことで一般良民と区別され、さらに男女で法制上の扱いが異なるので、戸籍上の婢の名前にはすべて『メ』がついている。女性名接尾辞『メ』は、それまで集団として生存していた人々の一人一人について、生物的に男・女の区分(セックス)を判定し、それを公的負担上での”男””女”の区分(ジェンダー)に転化・明示する意味をもつ記号だったのである」243頁

「同じく7世紀末に、それまで男女共通の『王』(みこ)号で呼ばれていた王族男女に、皇子(みこ)と皇女(ひめみこ)という男女で異なる称号が設定され、待遇に明確な差が設けられた。『氏々男女』として男女共労/協働で朝廷に奉仕してきた豪族層男女も、男性官人(トネ)と女性宮人(くにん)(ヒメトネ)として職掌や出仕先が明確に分けられ、身分・待遇に大きな差が設けられた。女性名接尾辞『メ』『ヒメ』の画一的付加は、公的制度での男女区分の成立と明確に対応している。
 『風土記』が編纂されたのは、まさにこうした転換がなされ、それが規範として社会に浸透しはじめる8世紀前半のことである」243頁

官 文娜(2005)『日中親族構造の比較研究』思文閣出版、74-103頁

「いわゆる『姉妹型一夫多妻婚』とは1人の男性の複数の妻が姉妹同士であることを指している。そのような婚姻形態は、古代の世界各地のさまざまな民族における一夫多妻婚の段階にしばしば見られる。例えば…中国の周代の『腰制』はそれである。そしてこのような婚姻形態は春秋時代にも引き続き見られた。…日本の『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『先代旧事本紀』などの古代史料の中でも、こういった婚姻形態は枚挙にいとまがない。…中国古代の魯と斉の国の間の婚姻は、日本の古代文献に記載される『姉妹型一夫多妻婚』という婚姻形態からいえば同じである。しかし中国の場合『姉妹型一夫多妻婚』を行う一方で『同姓不婚』という婚姻規則を貫いているのに対し、日本古代では『異母兄妹婚』が普遍的に見られることから、両国の婚姻形態・婚姻規則は異なる性質を持ったものであるといえる」246-7頁

「父系制社会では父方平行イトコ婚、母系制社会では母方イトコ婚が禁忌される。父の兄弟とその子供および母の姉妹とその子供は自己と同じリネージの人間であると考えられているため、平行イトコ婚が禁止されている社会では、社会的血縁関係は父系と母系に分かれるばかりでなく、父系親族・母系親族どちらもがそれぞれリネージとなり得る。つまり血縁集団構成員資格(membership)の継承・伝達においては父系と母系が独立した位置に置かれているのである。このような血縁構造は『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』/bilinear filiation)といわれる。この『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』)はすべて平行イトコ婚を禁止し、父と母の血統が分けられるのを前提としているのである」253頁

「中国古代の魯・斉両国間の婚姻は生物学的に近親婚である。しかし、『同姓不婚』の婚姻規則は、両国間で行われたような『姉妹型一夫多妻婚』による近親婚を父系宗族の範囲外で行うことにした。このような族外婚制は血縁親族の構成員を血族と姻族に分け、父系と母系という異なる血縁系統に分けるという重要な役割を果たす。まさにこのような意味において、中根千枝氏は『族外婚』を父系制・母系制と連動した重要な婚姻規則であると考えている。
 中国古代における『同姓不婚』を前提とする『姉妹型一夫多妻婚』とは異なり、日本古代社会では『姉妹型一夫多妻婚』と同時に『異母兄妹婚』も広く行われていた。…このような婚姻は平行イトコ婚でも交叉イトコ婚でもなく、父方から見ても、母方から見ても文化人類学的には族内婚と見なされる。このように日本古代社会における『姉妹型一夫多妻婚』は『異母兄妹婚』と同時に現われるところにその重要な特徴がある。…日本では血縁構造を父系・母系に分かつことはできない。それは『母系制』『父系制』『双系制』のいずれでもない。つまり『出自』系統は持たない。無系的および血統上での未分化のキンドレッドの範疇に属するべきものである」255頁

「日本では、女子も祖先の血統を受け継ぎ、結婚後も男性と同等な『血縁集団構成員資格(membership)』を有したということである。皇族には、同一祖先の下の男性と女性が含まれるということになる。…したがって、こうした血縁集団は血縁の『系統』を持たず、それゆえ『母系制』『父系制』のいずれでもない。そして『双系制』は単系を前提としている以上、日本古代の血縁集団は『双系制』でもなかったはずである。
 また、この社会では、父の兄弟または子女との婚姻が普遍的なものであったために、西野[悠紀子]氏は『父系近親婚』と名づけた。しかし著者は、このような婚姻形態のもとでは必然的に父方の近親婚だけでなく、母方の姉妹とその子女との近親婚も存在していたと考える」262頁

「『純血統』という概念は、民族によってまったく異なった実態を持ち、性格の異なった婚姻形態によって規定されている。日本古代の天皇家が固執した貴い、神聖にして侵すべからざる『純血統』には、同じ血縁集団内の男女、および彼らと婚姻関係を持つあらゆる血縁親族が含まれていた。この『純血統』を維持するのは天皇家『一族』の内婚である。このような婚姻の結果、父系・母系とその親族はみな同一血縁集団に属することになる」263頁

「中国では『同姓不婚』という婚姻規制によって、その血縁集団構造が典型的な父系単系出自集団となった。これに対して、日本古代では同父同母の兄妹婚は禁忌として排除されたが、同父異母・異父・同母の兄妹は通婚範囲内にあった。しかも女性を血統上排除するという中国のような規制がなかったために、血縁は父方母方双方を通じて無限に拡散することになった。ゆえに、日本では祖先からの血縁の『系統』をたどるような出自集団が形成されなかった。したがって日本古代社会の血縁集団は無系あるいは父母双方の血統が未分化の状態にあるキンドレッド構造であり、それ以外の母系制・父系制・双系制出自集団や父母双方の血統が分化した『双方親族集団』とはなりえなかった。日中両国の互いに異なる血縁集団の構造はそれぞれ異なる婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである。婚姻形態・婚姻規制が異なれば形成される血縁集団の構造も異なる。血縁集団の構造は直接に婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである」264頁

Đô Thai Đông. (1990) “Gia đinh truyên thông va nhưng biên thai ơ Nam Bô Viêt Nam,” Tap chi Xâ hôi hoc 3(21), pp.9-14.
=渡邊拓也・加藤敦典訳「ベトナム南部における伝統的家族の変容」、283-95頁

「日本の伝統的家族は、社会政治的な制度というよりはむしろ、ビジネスのためのユニットだったようなのである。儒教道徳は、もともと中国では政治的な目的を備えていたのだが、日本では経済的目標へと方向づけられ、家父長はビジネスリーダーだった。他方、両者の間のきわめて示唆的な類似点は女性の地位が低いことであり、これは大部分において儒教からの影響だったといえる。
 …ベトナムの伝統的家族は中国の大家族にみられたような社会政治的制度の性質を備えてはいなかった。…各村落は血縁によって直接結ばれた核大家族(親族集団)の成員によって構成される村の諮問会議(族表〔tôc biêu〕)という独自の自主管理のメカニズムももっていた。儒教は、こうした村落共同体の日々の活動において、比較的小さな影響力しかもっていなかったといえる。…
 こうした村落組織において、家族の一般的形態は準ー核家族(semi-nuclear family)とよべるような何かだった。両親と祖父母は一番上の息子と同居し、他の息子や娘たちは原則、結婚して別の家庭を築くのが習わしだった。…血縁で結ばれた拡大家族(ゾンホ〔dong ho〕)のつながりの強さは、実際には感情と相互扶助の側面だけにしかみることができなかった」286頁

「宗族をめぐる子どもたちの序列は、南北でずいぶんと違っている。まず南ベトナムでは『長男』や『長女』を表す特定の言い方がない。一番上の子は『次男』や『次女』、つまり2番目の子とよばれるのである。そしてこの序列にもとづいてさらに下の子どもたちが数えられ、最後は『末子』となる。北部なら、子どもたち世代の代表者はあくまで長子であって、より多くの遺産を相続すると同時に、年老いた両親の世話と先祖祭祀の責任を負う。これと対照的に、南部では、この役目を引き受けるのは末子となる。両親は末子の家に同居し、その死後の供養をするのも末子なのである。息子がいない場合には末娘がその役に当たることになるが、この場合はふつう末娘の結婚相手(義理の末子)が供養を行うことになる。遺産相続はふつうすべての子どもたちの間で均等に分割されて行われる。もしいくぶんかの優先権が与えられることがあるとすれば、それはやはり末子に対してである。したがって南部においては、年長の者に敬意を払うことが当然視されている一方で、『長子優先(trương thương)』の原則が何らか実効性をもっていないことになる。そして、まさにこうした事実が、南部の農村部において、家族の核家族化のプロセスを容易に加速させたといえる」291頁

「子どもたちは、父方の祖父母と同じように母方の祖父母を敬愛するよう教育される。このようにして南部では、家族における女性および妻の地位が向上し、女性のふるまいに関する儒教の影響力も大幅に弱められていったのである」292頁

森本一彦(2006)「先祖祭祀と女性——半檀家から一家一寺へ」、落合恵美子編『徳川日本のライフコース——歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房、283-304頁

「近世前期の嫁は、生家の財産を継承することを前提として生家の檀那寺を婚家に持ち込んでいた。嫁は財産に付随した先祖祭祀を主体的に担うことを期待されていたといえよう。さらに嫁が持ち込んだ檀那寺は子どもに継承され、先祖祭祀も子どもに継承された。しかし、一家一寺が浸透するなかで、嫁の持ち込んだ檀那寺は子どもに継承されなくなり、続いて嫁が持ち込んだ檀那寺も婚家の檀那寺に変更される。
 持ち込み半檀家から一家一寺への転換において、他家に嫁いだ女性が生家の檀那寺を持ち込むことは否定された。そのことは、嫁いだ女性が生家の先祖祭祀を主体的に行なわなくなるとともに、先祖祭祀の根拠である財産も継承されなくなることを意味していたと考えられる。嫁入婚が支配的な社会においても、財産や先祖祭祀の持込みを背景に女性の婚家での地位は低くなかったと思われる。しかし、女性が生家における継承権を失って生家帰属から婚家帰属となっても、婚家においては依然として主体的な継承権は与えられず、女性の地位は相対的に低下したのではないだろうか」311頁

「女性が婚家からよそ者として扱われることが問題とされるが、近世前期の女性は婚家においては生家の財産や先祖祭祀を継承するよそ者であった。夫婦もおのおのの生家に帰属していたので、帰属からみれば赤の他人であった。帰属において赤の他人である夫婦をつなぐのは、日常生活における協同と夫婦の財産や先祖祭祀を継承することを期待される子どもの存在であったといえる。『子はかすがい』ということわざは、喧嘩ばかりしている夫婦が子どもによって縁がつなぎとめられるという意味で使われるが、近世前期において帰属が異なる夫婦をつなぐものは子どもであったといえる」311頁

平井晶子(2003)「近世東北農村における『家』の確立——歴史人口学的分析」、『ソシオロジ』47(3)、3-18頁

「社会学的家研究は、家の本質を生活保障の場としての経営体と見なす『経営体としての家論』(有賀…)、超世代的に連続する直系家族と位置づける『直系家族としての家論』(鈴木…)、普遍的概念である家長的家族とみる『家長的家族としての家論』(戸田…喜多野…)に大別される。従来の理解では、これらの説の相違点ばかりが強調されてきたが、意外にも基本的に認識では共通点が多い。
 第1の共通認識は、<家業と家産の維持>を伴うものを家と捉えている点である。…第2には直系親族または嫡子により<一子相続>される点である。…第3はこれらの特質を持つ家は世帯構造の点から見ると直系家族になると捉えたことである。
 さらに上記の特質を持つことの大前提として家は<永続的に存在するもの>とみなされてきた。…
 つまり、①世代を超えて永続すること、②家業・家産を維持すること、③相続は一子相続であること、④世帯は直系家族構造をもつこと、これらの特質を備えた世帯が家と考えられてきた」313-4頁

「そもそも家は12世紀後半の貴族社会で誕生した。律令制度の解体期である11世紀後半、政治構造が変化するなかで特定の身分と職能を備えた官職が貴族のなかで世襲化することに端を発し家が誕生した。それが14世紀から16世紀にかけて武家社会のなかで完成する。公家の家では職能とそれにともなう官職の相続が中心をなしていたが、武士が在家領主となった鎌倉時代に家業としての職能に加えて所領という家産が登場し、公家の家よりもさらに『家』らしい家が形成された。そして南北朝以降、惣領制的な相続形態から長子単独相続への変化が生じ、より完成された『家』へと発展した」314頁

「農民の場合、まず議論されてきたのが17世紀後半から18世紀初頭にかけて登場した『小農自立』であり、経済史的視点から世帯およびライフコースの特質に大変革が生じたことが明らかにされてきた…変革前の世帯は従属農民や傍系親族を包摂する中世的大家族であったが、小農の自立により従属農民や傍系親族が独立し、世帯規模が比較的小さく、均質化し、単婚小家族的な世帯が広がった。この世帯の変革は、未婚の隷属民が主人の世帯から独立し結婚することでもあり、未婚率が低下し、結果として全体の出生率が上昇し、人口増大をもたらした…16・17世紀は大規模な新田開発、市場経済の進展、さらには幕藩体制の確立、石高原理に基づいた家・村支配が開始されるなど、政治的大変革期であり、それらの複合的な影響を受け世帯の特質が変化したと考えられてきた」314-5頁

「それでは、この時登場した小農は『家』を確立させていたのか。この時期の世帯は自立性が高まり、均質的な単婚小家族になったが、まだ『家』的特質を備えるまでには至っていなかった。概ね子供の内の1人が生家に留まり親と同居するというルールはあったが、大規模な新田開発が進んでいる時期であり、財産は子供の間で均分相続されることが一般的とされていた…
 しかし、いつまでも新田開発が続くわけではなく、17世紀の末には大開墾時代も終わりを迎え、それと連動して分割相続が困難になる。分割相続から単独相続への移行には、分地制限令など法による『上からの統制』もあったが、その影響というよりはむしろ、経済的理由、経営体として世帯を維持する必要から相続形態に変化が生じた。また単独相続への移行期は、村において家格制が定着してくる時期であり、家名の維持が意味を持つものとなる。すなわち、経済状況(新田開発の終焉)が分割相続の可能性を希薄ならしめただけでなく、村落構造の変化のなかで家のステイタスを維持することが重要になり、〈家産観念〉が発達し、単独相続が普及した…
 つまり、小農自立の後、(それを前提として)18世紀初頭に『家』が確立した。これが農村における家変動論についてのもっとも実証的で説得的な仮説である」315頁

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