平井晶子・落合恵美子・森本一彦編(2022)『結婚とケア(リーディングス アジアの家族と親密圏 第2巻)』有斐閣

平井晶子「序論 アジアの結婚とケア——伝統と新しい展開の現在地」、1-28頁

「戦後の変化は『見合い結婚から恋愛結婚』へ」といわれてきたが、恋愛結婚の実態は『職縁結婚』であり、『職縁結婚』の衰退が現在の未婚化をもたらした…そして見合い結婚や職縁結婚の衰退は、未婚化のみならず若者の異性関係からの撤退につながった…
 …明治後半から大正生まれのおよそ5500人の聞き取り資料を検討した服部誠は、戦前の結婚は恋愛によって結ばれた事例が多く、明治以前の旧い時代には恋愛結婚がむしろ一般的であり、しかも、当時の自分で選ぶ結婚には離婚・再婚という再チャレンジの機会が保障されていたという。ところが、『家』社会が広がり、離婚が否定的なものに変質した結果、いったん結婚すると相手がどうであれ『たえる嫁』であらねばならなくなり、どうせたえるのなら少しでも良い家に、ということから、親が選択に口を出す新しい結婚、見合いが広がったと説明する。女性の上昇婚の始まりである」2-3頁
↑ 服部 誠(2017)「近代日本の出会いと結婚——恋愛から見合へ」、平井晶子・床谷文雄・山田昌弘編『出会いと結婚』日本経済評論社、235-46頁

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「落合はアジアの多様な結婚を『家父長的結婚(patriarchal marriage)』と『しなやかな結婚(flexible marriage)』という2つの理念型から説明する。片方の極に中国やインドといった父系親族組織をもつ社会に典型的な『家父長的結婚』を、もう1つの極にタイのような双系的親族組織をもつ社会に典型的な『しなやかな結婚』を付置し、アジア各地の特徴はこの2つの理念型の間に位置づけられるという」6-7頁

「ケアとリンクさせた際に、ベトナムにおける親との同居はその形態も、機能も、日本の直系家族とはまったく違う。一時点の世帯構成をみると、ベトナム家族も日本の伝統的パターンと同じ直系家族世帯であるが、すべての男子がローテーションで親と暮らすため、時系列でライフコースを観察するとまったく違う状況が現れる。父系社会であるベトナムや中国は、儒教倫理にもとづく長男優先と思われるかもしれないが、実は男子均分相続を旨とする社会であり、『父系社会=儒教社会』と単純化することはできない。
 ベトナムの人々は自分たちの家族を大家族と考えているが、センサスをみれば夫婦家族が大勢を占める」13頁

「戸田[貞三]は、100年前の第1回国勢調査の資料から[グエン・フー]ミンらと同じギャップに気づき、1930年代という早い時期にそのマジックを解いていた。すなわち、直系家族社会であると思われている日本であるが、1920年の静態統計をみる限り核家族が多いこと、そして、それが当時の死亡率や出生率、結婚年齢といった人口学的制約によるものであり、直系家族が可能である場合には7割以上がそれを実現していたことを示し、私たちの家族イメージと実態とのギャップを埋めた」14頁

「沢山美果子は、命や身体という切り口から近世の実態にアプローチし、『いのちをつなぐ』ためのさまざまな方策の存在を明らかにした。たとえば幼い子どもを残して母が死亡した場合、もしくは乳が出ない場合、『もらい乳』という方策で赤子の延命が図られた…また、養育できない事情がある場合には『捨て子』という選択肢があったという…『捨て子』は赤子を亡きものにするための行為ではなく、生かすための方策であった…どこに『捨て』ればより良く生きられるのか、ある種の知恵が共有されていたのである。拾う側も慈善行為として養育するだけではなかった。『捨て子』を必要とする人もおり、多くは強く求められて養われていた。ある意味で『捨て子』は育てられない子どもを求める人に届ける仕組みだったのである。
 夫馬進(1990)によると、中国の明清期には捨て子を拾う動きが活発化したという。皇帝が進める育嬰堂(養護施設)から地方の行政が担うもの、有志がお金を出し合い運営するものなど、さまざまなものが全国に広がった。『流される』赤子(特に女児)を救うことで、『果報』を得たいという慈善行為として始められ、清末には保嬰会に膨大な資金とエネルギーが投入されたという」17頁
沢田美果子『江戸の乳と子ども』吉川
夫馬進「清末の保嬰会」『シリーズ世界史への問い5』岩波

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