「戦後の変化は『見合い結婚から恋愛結婚』へ」といわれてきたが、恋愛結婚の実態は『職縁結婚』であり、『職縁結婚』の衰退が現在の未婚化をもたらした…そして見合い結婚や職縁結婚の衰退は、未婚化のみならず若者の異性関係からの撤退につながった…
…明治後半から大正生まれのおよそ5500人の聞き取り資料を検討した服部誠は、戦前の結婚は恋愛によって結ばれた事例が多く、明治以前の旧い時代には恋愛結婚がむしろ一般的であり、しかも、当時の自分で選ぶ結婚には離婚・再婚という再チャレンジの機会が保障されていたという。ところが、『家』社会が広がり、離婚が否定的なものに変質した結果、いったん結婚すると相手がどうであれ『たえる嫁』であらねばならなくなり、どうせたえるのなら少しでも良い家に、ということから、親が選択に口を出す新しい結婚、見合いが広がったと説明する。女性の上昇婚の始まりである」2-3頁
↑ 服部 誠(2017)「近代日本の出会いと結婚——恋愛から見合へ」、平井晶子・床谷文雄・山田昌弘編『出会いと結婚』日本経済評論社、235-46頁
「沢山美果子は、命や身体という切り口から近世の実態にアプローチし、『いのちをつなぐ』ためのさまざまな方策の存在を明らかにした。たとえば幼い子どもを残して母が死亡した場合、もしくは乳が出ない場合、『もらい乳』という方策で赤子の延命が図られた…また、養育できない事情がある場合には『捨て子』という選択肢があったという…『捨て子』は赤子を亡きものにするための行為ではなく、生かすための方策であった…どこに『捨て』ればより良く生きられるのか、ある種の知恵が共有されていたのである。拾う側も慈善行為として養育するだけではなかった。『捨て子』を必要とする人もおり、多くは強く求められて養われていた。ある意味で『捨て子』は育てられない子どもを求める人に届ける仕組みだったのである。
夫馬進(1990)によると、中国の明清期には捨て子を拾う動きが活発化したという。皇帝が進める育嬰堂(養護施設)から地方の行政が担うもの、有志がお金を出し合い運営するものなど、さまざまなものが全国に広がった。『流される』赤子(特に女児)を救うことで、『果報』を得たいという慈善行為として始められ、清末には保嬰会に膨大な資金とエネルギーが投入されたという」17頁
沢田美果子『江戸の乳と子ども』吉川
夫馬進「清末の保嬰会」『シリーズ世界史への問い5』岩波