俺が昔コーヒーだった頃、あの娘はドーナツだった。

高解像度で見るという比喩。
起きている事象や現象を、はっきりと、精密に見るということ。
しかし、高解像度で見るということは、一つの映像を見ているに過ぎないのではないかとも思う。

一つの映像は、とても多くの粒で出来ている。これを物事、事象や現象で例えるのであれば、粒は要因に変わるだろう。

高解像度で見るということは、もちろん大切。一体何が起きているのか、はっきりと、精密に見なければいけない。
しかし、もう一つの視点、粒子的視点も必要なのではないだろうか。

高解像度は、粒を細かくしたことも事実。
本当は、粒の存在を忘れるどころか、私達により細かく粒を見るよう、高解像度は要求しているのかもしれない。
かつてあったブラウン管テレビは、少し注視すれば、容易くその粒を見ることができたと記憶している。
私達は、どこまで細かい粒を見ることができるのだろう?

異なる映像では、共通する粒もある。
例えば、フェミニズムという映像と、外国人労働者という映像には、ケア労働という粒が共にあるのではないだろうか。
その共通の粒に気付くことは、新たな映像を作る可能性があるだろう。それは新たな連帯であり、希望であるのかもしれない。

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アメリカ出身のピアニスト、Leo SvirskyのRiver Without Banksというアルバムを聴いた時、僕は粒子的音像世界の中にいた。
2台のピアノによる、密度の高いアルペジオで紡がれる音像世界。
一つの音を構成する、一粒一粒の粒子を表現しているかのように感じる。
この音像世界には、高解像度で見ることとは違う、別の見方があることを思わせてくれる。
高解像度によって忘れられてしまった、粒の存在を。→

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決勝トーナメントの組み合わせを見る。戦慄。
日本が初戦を勝って、韓国も初戦を勝つと、日本対韓国になる。
そうなったら、今ままでなんだかんだでTwitterを見てしまっていたが、今度こそしばらく見ないかもしれない。
これは、本当に選手や関係者には申し訳ないと思うけど、どちらも初戦で負けて欲しいとすら思ってしまう。
もし、僕に韓国人の友達がいたら、どちらも負けが分かった時点で、うかない顔して飲みに行きたい。酒と愛の力を借りて、共にBeautiful Loserになる。
こんなネガティブな方向でしか、ポジティブなことが考えられないのが悲しすぎる。
もちろん、本音は両チーム勝って、いい試合をして、勝っても負けても健闘を讃えあいたい。
いや、そんな品行方正でなくてもいい、
例えば、どちらかの部屋で一緒に試合を観たとしよう。負けた悔しさから、八つ当たりされたり、悪態をつかれたりしても、その吐き出された悪態の中には、悔しさ、やるせなさ、甘えを感じることができる。スポーツは観る方も、コミニケーションなのかな?
こういうふうに、人と愛しいコミニケーションを取ることができるのなら、僕もスポーツに興味が持てるかも。

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12/2
朝6時半iPhoneのアラームに起こされる。
Twitterでサッカー日本代表がスペイン代表に勝ったことを知る。あの人もこの人も嬉しそう。タイムラインを遡る。歓喜からドキドキ、ハラハラへの逆再生。手汗は皮膚の下へと吸い込まれていく。
サッカーは、正直日本代表選でも興味がないけど、少し嬉しい気がする。
20分経過。昨日は全然歩いてないことを思い出し、朝の散歩へ。
大学通り、通勤、通学と思わしき人達の表情には日本代表が勝ったことなど、露ほども感じない。
町を一人で歩く時は、無表情でいなきゃいけない暗黙の決まりがあるのかもしれない。
風景以上に風景になろうとしている。
道に銀杏の黄色い葉と、ピンクの花びらが混じって落ちていた。とても綺麗だと感じた。
後から、抱き合って埋葬されていた骸骨を思い出した。根の暗さか滲み出ていますね。

12月になってしまったけど、サンパウロからユニオンを経由して、私の部屋にTim Bernardesの新しいアルバムのレコードが届く。
ジャケの通り、常緑(ever green)なユートピアがレコードの回転に乗って広がる。

夜、もう一度コンビニにいく。
コンビニから家に向かって歩きはじめると、後ろを歩いていた女性2人組が、「私達の青春のコンビニ」と話していた。
町がコンビニだらけになるのは虚しいが、コンビニにも誰かの思い出や、思い入れがあると知る。

友達から、ポケモンのサトシがアニメの新シリーズでも、続投が決定したという情報のリンクが、「若い者に座を譲らない系」というメッセージを添えて送られてきて、ウケる。
サトシはアニメの中では永遠の子供だが、現実と同じように歳をとっていれば、僕とほぼ同じ30代半ばだ。僕が50歳になった時、相も変わらず「ポケモン!ゲットだぜ!」と言っているのを想像すると、何かノスタルジーを感じる。

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朝、玄関を開けたら冬がいた。
「冬だ。しばらく世話になるぞ。」みたいな感じで、唐突に。冬が長いのが苦手なので、3月になったら帰って欲しい。
コンビニにコーヒーを買いに行く。
コンビニで自分を表現するとしたら、などと考える。
お昼を買うなら大体サラダ巻き。
最近までコーヒーマシーンが使えなかった。操作に手間取って、後ろの人を待たせてしまうことを恐れていた。
ある日友達に付き添ってもらって、ボタン押すだけのことを知り、これを克服することに成功した。
よくバウムクーヘンを買うから、店員さんから「Mr.バウムクーヘン」とあだ名を付けられているのではと思う。もしくはバウムクーヘンの人。
深夜は、店員さんが作業していることが多いので気を使う。僕も昔深夜のコンビニで働いていたことがあるので、余計に。そういう時セルフレジがあるとありがたい。
髪を薄いピンクで染めた女性の店員さんから、「箸”とか”いりますか?」と言われて、その言葉使いに感動を覚える。嫌味ではなくて、本当にいい意味で。→

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12/1
Spotifyの、私の2022年のリスニングのまとめを見る。
一番聴いたジャンルが知らないジャンルでウケた。その名をFourth Worldという。
一体どんなジャンルだかあえて調べない。今は知らないままにしておきたい。
一番聴いた曲は、やはり坂本慎太郎の「物語のように」だった。
歌詞も曲も演奏もとってもシンプルで素朴。
こういう歌のお陰で、思い出がより愛おしく感じられるのかも。思い出の為の歌。
「君の心臓バクバクさせてるそれが何か探している」という歌詞が、くすぐったい感じがして好きだ。 →

夜は結局ロイヤルホストに頼る。入る前は春みたいな風が銀杏を散らしていたが、出た時にはすっかり冷たくなっていた。
家までの帰り道に、iPhoneでまた「物語のように」を聴く。明日から12月。

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11/30
前の日は尾道から戻ってきて、疲れやら寂しやらで風呂も入らず布団に入る。それなのに何故か3時ぐらいまで寝付けなかった。

朝起きても、旅の余韻が抜けない。
しばらくぼーっとする。洗濯物を回して、コーヒーを淹れる。尾道で買って、食べず仕舞いだった餡パンを食べる。カバンの中で、お土産や本にもまれたようで、餡がはみ出さない程度にぺちゃんこだ。

余韻により浸る為に、坂本慎太郎の「物語のように」のレコードに針を落とす。
尾道の思い出だけではなく、夏みたいな6月の終わりの立川での、坂本慎太郎のライブも思い出す。バックコーラスの「ういうい、あーあーあー」のような、重さのない物憂げな気分になる。

国立に帰ってきたけど、まだ気持ちは尾道のような、自分が今どこにいるのか分からなくなる。この期に及んで、まだ尾道から帰りたくないのかもしれない。
国立の友達に会おうかと考えた、夜ご飯にロージナに行こうかとも考えた、だけど日常や国立の色が濃すぎる。大好きなロージナの苦くて香ばしいコーヒーでも飲んだら、一気に国立に引き込まれてしまう。国立は大好きなはずで、その気持ちは変わらないはずなんだけど。
昨日国立に戻ってきてから、ただいまって言ったけ?家に戻ってきてからただいまって言ったっけ?ただいまってなんだっけ? →

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