『涙の果て 知られざる女性のハリウッド・メロドラマ』幸福の追求に続く形で、フェミニスト映画理論(『「新」映画理論集成1,2』を眺めたぐらい)やホモソーシャルの問題により接近してるっぽい…!とうきうき突っ込んで、かいぎろんて何?????そして強力に立ちふさがる精神分析。おおい…無理無理の無理
こちらに署名しました。
群馬の森 朝鮮人追悼碑「記憶 反省そして友好」を残して下さい
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdgrU6MD8tVcO_zbzP6YRrO_mKzzgcdvaJ9bbhkRTON8Njiow/viewform
まずまず穏健な形の赤頭巾を買ってみましたが職場に被って行けば「テロリスト?」など言われるのは火を見るより明らか。誰が、どのような文脈で身に着けるか問題含みのファッションアイテムか…「頭を布で包む」って真知子巻からハードル上がってるよな早まったかな。とたそがれていたら、i-Dでサクッと記事になっていました
https://i-d.vice.com/ja/article/88gvdv/balaklava-trend-moda-tiktok
先日の大寒あたりに、寒いなサウスパークのケニーになりたいな。近年ヘッドウェアブランドから継続で出てたでしょ。など思いつきでセール品を漁ってバラクラバ帽がマストレンドになってることに気が付く
女性映画は何から離反するのか?――アニエス・ヴァルダとケリー・ライカート
https://tkira26.hateblo.jp/entry/2022/01/10/134317
> 男性が若い女性にあれこれ「教えたがる」ことを「マンスプレイニング」というが、それは単に知識を利用した支配欲の表れではない。何が教える価値のある知識なのかを男性が構築する行為である。ライカートは『スター・ウォーズ』を観たことがないというが、それは権威的で男性的な映画作法の象徴として捉えられている。ライカートがそれを拒否していったことは、男性的に構築された知の組み換えであった。多彩な「女性映画」に何か共通のものがあるとすれば、まずはそうした知のあり方からの離反にあるだろう。
>世の中のたいていのひとは、「性自認がわかるまでは特定の性別のひととして扱わないようにしよう」という留保さえせず、問答無用で自分の認識に沿って、ひとを女性扱い/男性扱いするのだ。
↑BT、記事からの引用。マンスプレイニングからはズレますが…
「女性扱い/男性扱い」の隙間に落っこちる体験を『エトセトラ VOL.10 特集:男性学』読者アンケートへ、掲載されるにしても適当にピックされるだろうと人に読んでもらう意識を欠いただらだらした文章で回答したらそのまま掲載されてしまい大変お恥ずかしいのでした…
長らく職場の窓から見える、向かいの住宅の窓辺に「常に猫不在の白いキャットタワー」が突如として「白いキャットタワーで白い猫が寝ている(見えるのは尻のみ)」へ認識に切り替わった時の鮮やかさを反芻している
チネマ・リトロバート映画祭「ヴィットリオ・デ・セータ作品集」上映後のジャン・ルカ・ファリネッリ氏の講演の最後に引用されたパゾリーニの寄稿「ホタルをめぐる記事(原題 イタリアにおける権力の空洞化)」1975年2月1日 コッリエーレ・デッラ・セーラ紙掲載、翻訳と解題のPDFあり。
https://researchmap.jp/read0146667/misc/42002215
>「サルペトリエール施療院は、いわば女の地獄、苦痛の都だった」
ユベルマン『ヒステリーの発明 シャルコーとサルペトリエール写真図像集』〈上・下〉が好きで、煽情的にネットにUPされる公衆トイレやオールジェンダートイレの不安定なスナップ写真が、悲しむべきは多くの人には虐待の事実と犯罪現場の明白な証拠写真で、いままさに「女」の消滅が写っているはらはらする見世物なんでしょう。と、イライラと思う事にしてます。
写真に写ったものは存在する。写真には見えるものも見えないもの全てが存在している。という辺りは、最近やっと読んだ『写真のボーダーランド-X線・心霊写真・念』でも。いや想起するにももっと楽しいことあるでしょ神智学とか…
他の場所に行く気があまりありません