やばやばしごしごしごとぜんぜんおわぜん終わらない。よって明日より先のことは考えられず2週間以上アイロンがけは止まりシャツの小山が部屋の隅で成長を続けているがまだハンガーには着れるシャツがかかっている。全部で何枚?
これもへなっとした戦闘機の、中ハシ克シゲ『ZERO Project』
https://uozumi.net/zero.html
兵庫県公館に設置された中ハシ克シゲの彫刻『Dog Night』の前のベンチで漫然と近くのパン屋Pane Ho Marettaで買ったホットドッグを食べてて、魚のホームページ https://uozumi.net/ に行き当たったのですが、今回の再読では村上隆「インポテンツな現在」とは抜かりない展示の配置と見えてしかし永遠の0的なものへの通路だったかなと、輝いていたスター作家の記憶に苛々しました
ちょうどフィオナ・バナー/Fiona Bannerの退役の、模型の、描かれた画像の、やわらかいデコイの戦闘機をぐるぐる見て回っていたところだったので
https://www.tate.org.uk/art/artists/fiona-banner-2687/fiona-banner-fighting-planes-tate
ハヤカワからぶいぶい出るぞだがしかしハヤカワ・オンラインのページにアクセスできない『WAYS OF BEING 人間以外の知性』、作者ジェームズ・ブライドルのworkをほーんと見てたら、『ドローンの影』連作ほか「images of the landscapes of drone strikes…」※とあり、展示室(と日常)に持ち込まれた兵器に惹かれるやつはよむやつだ。最近のドローンは天上を漂う幽体というより破壊の光景により近く実体を感じたり、あるいは経済や社会の凋落を知らせる先触れの鳥のような存在感が多い印象ですが…
※風景画として眺める『DRONESTAGRAM』(2012)
https://dronestagram.tumblr.com/
世田谷美術館での馬六明(マー・リューミン)のパフォーマンスの記録(長谷川祐子)。携帯電話にカメラが付く前の公共の場に現れた裸体なんだよなあ。
https://artscape.jp/museum/nmp/nmp_b/column/Mar04-a_j.html
モナ・ハトゥムは世田谷美術館の展覧会『デ・ジェンダリズム~回帰する身体』(1997)に参加している。図録の実物を古本屋でぱら見したのみ
https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00083
>タイトル、「デ・ジェンダリズム」は、ある人間のアイデンティティを問うとき、まず男か女かを問い、そしてその社会的役割(ジェンダー)というフィルターを通して「その人は何なのか」を判断しようとすることへの疑問から始まって…
『ホロコーストとナクバ——歴史とトラウマについての新たな話法』の序文(第1部第1章で力尽き中)、にモナ・ハトゥムのエルサレムで行ったサイトスペシフィックな展示『Present Tense』(1996)が、“ナショナルなホロコーストの歴史的解釈の断絶”エピソードで出てくる。ナブルスのオリーブ石鹼の香りとWWⅡの人間石鹸の存在しない香り
https://www.aluo.uni-lj.si/en/objava/mona-hatoum-present-tense-1996/
先進資本主義におけるポスト工業化時代の主体としてわたしがそのただなかにいる宇宙においては、人間の女、オンコマウス、クローン羊ドリーのあいだには非常に多くの親密な関係があり、それゆえ、それら三者の身体化され状況に埋め込まれた場所には共通点が多い。
(省略)
同様に、人間という種の女性として状況化されたわたしの立場ゆえに、わたしは構造上、サービスを提供する側にいる。かくしてわたしは人間という種の不可侵性や統一性をめぐるいかなる観念よりも、望もうと望むまいと臓器や細胞の提供者である有機体により近いところにいるのだ。
(省略)
わたしの性別は、価値下落的な差異あるいはより価値のない存在として理解された「他者性」の側に陥れられた。ポストヒューマンへの生成変化がわたしのフェミニスト的自己に訴えかける理由のひとつは、歴史的にいってわたしの性別が完全な人間性(ヒューマニティ)に成り遂げることができなかったからである
(省略)このあとフェミニズムSF的に(しか読めない!)盛り上がりまーす。写経転記終わり
お知り合いがくそったれ女性の定義をRTしてるのについtwitterXにちくちくPOSTする愚行の後、ガレノスのワンセックスモデルの図をじっとみる→ブライドッティのポストヒューマンのよく分からないがかっこいい所を写経する、などパターン化の気晴らし後、翻訳が出るんですってねの下記を読みました。『人間狩り』の後書きで名前が出てきた人だ。
エルザ・ドルラン『人種の母胎』における 「妊娠・出産」の問題
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/785_04.pdf
主に『すずしろ日記』が目当てのPR誌『UP』に受賞の報が載っていて気を引いた保井啓志「中東で最もゲイ・フレンドリーな街」をえっちらおっちら読む(もうやだ残業中)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/34/2/34_35/_article/-char/ja/
「現代イスラエルにおける権利をめぐる政治とナショナリズム:性的少数者の権利と動物の権利の比較分析」
『現代思想2024年2月号 特集=パレスチナから問う』、「「我々は人間動物と戦っているのだ」をどのように理解すればよいのか」
電車の座席に着席する際の主に肩、肘、腕の側面の強制的な接触についての錯綜した会話は(我々は不快に都市にぎゅうぎゅう犇めく動物です。と晩に亀に告白するのです)、ル・コルビュジエのモデュロールを理解するためのかんたんな演習「2人組になってお互いの身体を計測してみよう」で相方の同級生(彼女のようにKEITAMARUYAMAを着こなす人をあれから見たことはありません)の2倍の肩幅を叩きだし(首をひねってお互い何回も測りなおしました)、ル・コルビュジエの(伝記的事実を知る前に)輝かしい神話が陰り、ウィトルウィウス的人体図へのうっすらとした疑念の発芽となった記憶を思い起こさせます。つまりあれはいささか不快な建築についての会話なのですね
2作に共通して繰り返し強調されるフレームとグリッド(英国…ではデスケールの先祖のような写生補助具で、ZOOでは死骸の腐敗を計測する黒地に白のグリッドで)、デューラーがなんかこういう道具使ってなかったっけ→図版は検索ですぐ探せるが、その図版を掲載している原典は分からないおばかさんが、アルブレヒト・デューラー「測定法教則」にたどり着きました。わーぱちぱち
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/336657
他の場所に行く気があまりありません