80年代にフジヤマゲイシャ展を関口敦仁氏らと企画するなど、「関西ニューウェーブ」の裏番長的な存在としてマニアックに知られている画家山部泰司氏の息子こと山部天資氏の読切マンガがヤングガンガン誌の最新号(2023年20号)に載っていると聞き、お救いしてみました。女の子の殺し屋と、彼女の仕事を見てしまった病弱ショタとの残り少ない逢瀬の日々というストーリー自体はリュック・ベッソンみがずいぶん強いなぁとか思うことしばしではありますが、ほどよくクセのある絵柄だし、良い原作者と組んだら連載も見えてくるかも?
しかしそれにしても、ヤングガンガン誌って、昔は「隔週刊なのにコンビニどころか書店でもなかなか手に入らない、半ば幻の雑誌」呼ばわりされてたものですが、最近はそうでもないんですね。(『その着せ替え人形は恋をする』が謎にスマッシュヒットしている)福田晋一氏さまさまですな
フジ×京都芸術大が国内唯一の完全オンライン「映像」学ぶ学士課程を共同開発 24年春から開始(日刊スポーツ) https://news.yahoo.co.jp/articles/d58a8698b66133d614e328bf416791d813a66da3?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20231008&ctg=ent&bt=tw_up
本コースでは、映像が氾濫し、誰でも手軽に自己表現ができる時代にこそ求められる、映像を社会に活かす力を「映像力」と名付け、理論と実践から映像力が身に付けられるカリキュラムを提供する。また、映像のプロフェッショナルだけでなく、暮らしや仕事など、日常に映像の力を活かせる人材の輩出も目指す。少し前の記事ですが、映像系の学科って大阪芸大かよwww となりまして フジテレビとカリキュラムとかを共同開発したとのことですが、結局レガシーメディアでしか役に立たない人材しか輩出されないような……
《Tardiology》(1968)、巨大なダンボール箱を何段か縦に重ねて設置し、自重で崩壊するまでを作品としています(←いまさら)。当方は2019年に京都府立植物園で有志たちによって行なわれた再制作で一度接したことがありますが、既に崩壊したあとでした(画像参照)
「Tardiologyへの道程」展ではこの作品を60〜70年代における彫刻から立体への移行のターニングポイントと位置づけ、野村の師だった堀内正和と辻晉堂との対質を通して──つまり、過去の「戦後彫刻」の側からこの作品を再考することが企図されているのである?──改めて位置づけるようですが、それだけにかかる野心的なキュレーションに野村がどう応答するかを見てみたかったわけで……
https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20231027-20231217
野村仁(1945〜2023)。今月末から京都市京セラ美術館で──代表作のひとつとされている──《Tardiology》についての展覧会「Tardiologyへの道程」展が開催されるのですが、図らずも追悼展ということになってしまいましたか……
https://x.com/hisakohara/status/1710129795970060299?s=46&t=HVpKYwTPKrcFmeLhJHBABA
既に述べたように、田中女史の作品はさまざまな物を集めて作られたモノが主役となっていますが、彼女いわく、この物たちは自身のもとに「集まってきた」ものだそうです。で、手に入ってすぐ作品に使うこともあれば、何年も放置してきたものもあるという。作品のビジョンはそうして物が集まってきてから生まれてくる。逆に、「こういうテーマで作ろう」と思っても、思うように物が集まらないのだとか。これは一見するとオカルトめいた話ですが──彼女の作品におけるモノのイメージ的な通俗性と強さが、それを助長しているかもしれない──、しかし、ほかならぬ資本主義をテーマにしたオブジェ/インスタレーションという形で結実したとき、田中女史のかかる態度がいかにオカルトと真逆であるかが見えてくるでしょう。マルクスは社会的関係の総体とは商品同士の関係であると言っていますが、田中女史が「集まってきた」と言うとき、そこでは「商品同士の関係」が人間にとっての無意識のようなものであることが予感されている。
人間の意識的な位相からは無意識のようにしか捉えられない「商品同士の関係」によって「集まってきた」ものによって「寓話」として語られる物語という、田中女史の作品に通底するモティーフは、イメージをめぐる何重もの換喩が作られたモノに内在していることを示しており、そのことによって彼女の作品は資本主義の見る(悪)夢の分析として、非常に示唆的であったと言えるでしょう。あさってまで。
とりわけ今回は羊の頭が重要な意味を持っています。羊の頭はラテン語でovis caputと言うそうですが、この語は資本(capital)の語源に当たるのだとか。従って、メインの部屋にあったオブジェ/インスタレーションは、それ自体が資本と人間、あるいは資本主義における人間を寓意化することが企図されている《今回の展示では、資本至上主義社会の人間の行末を、剥製により擬人化した動物の姿で、寓話的に表現してみた》(ステイトメントより)。それは別室における皮肉の効いた残酷童話──“鹿紳士”によって山から街へ連れられた猪の家族が街の中でアイデンティティを失い、しまいには食用豚として“鹿紳士”に売られてしまう──によって、さらに突出した形で示されることになるだろう。
このように、この展覧会においても、田中女史の本業を通じて培われたさまざまな物のイメージを換喩として再提示することによって物語を寓話として語る力が全体に張りめぐらされていたわけですが、私たちがここで注目しなければならないのは、これらのイメージたちをめぐる暗黒寓話が、単に作品の内容にとどまらず、作品の成立過程にも深く刻まれていることです。どういうことか。
KUNST ARZTで開催中の田中佐弥「現代暗黒寓話」展。占い師を本業としつつ、折に触れて関西を中心に定期的に個展を開催している田中佐弥女史、同所での個展は昨年に続いて二度目となり、当方は2月にContemporary Art Gallery Zone(大阪府箕面市)での個展で接して以来、今年二度目になります。
そんな田中女史の作品は、さまざまな物を集めて作られたオブジェやインスタレーションが中心となっています。作られたモノによってストーリーやメッセージなどを語ることが主眼となっているわけですが、今回は展覧会タイトルにも「寓話」と入っていることからも明らかなように、それがさらに先鋭化していました。メインとなる部屋では、台座に乗せられた頭部だけの羊がこれまた頭部だけのマネキンの頭髪を刈っている──つまり人間と羊との関係が、ここでは逆転しているのである──という様子が、別室では二足歩行の鹿が猪の家族を従えている様子が、剥製やさまざまな古物によってインスタレーションとして提示されており、そこに自作の童話が添えられることで、これらが何を物語っているかが示されておりまして、管見の限り、彼女が制作したこれまでのオブジェ群の中でもかなり分かりやすいものとなっていたと言えるでしょう。
「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? 国立西洋美術館65年目の自問 現代美術家たちへの問いかけ」展|2024.3.12〜5.12|国立西洋美術館
出展作家:飯山由貴、梅津庸一、遠藤麻衣、小沢剛、小田原のどか、坂本夏子、杉戸洋、鷹野隆大、竹村京、田中功起、辰野登恵子、エレナ・トゥタッチコワ、内藤礼、中林忠良、長島有里枝、パープルーム(梅津庸一+安藤裕美+續橋仁子+星川あさこ+わきもとさき)、布施琳太郎、松浦寿夫、ミヤギフトシ、ユアサエボシ、弓指寛治
https://www.museum.or.jp/event/113709
唐突に一報に接してかなり驚きました。国立西洋美術館という、現代アートと無縁な場所で行なわれることもさることながら、出展作家のラインナップもかなり破格でして──この並び、東京&京都国立近代美術館や国立国際美術館でもなかなか実現すまい──、これまた様々に話題をかっさらうでしょうなぁ(というか、会期が丸かぶりなVOCA展がとんだトバッチリを食らっているような…… )
帝京大学出版会を創設しました https://www.teikyo-u.ac.jp/topics/2023/1002-1
《内容の難易度に応じて帝京新書、帝京選書、帝京学術叢書 の3つのシリーズを2023年12月から順次刊行します》とのことで、以前から新書の過当競争が言われてきた中で2020年に早稲田大学出版部( https://www.waseda-up.co.jp/ )が参入してきたときはぉぃぉぃと思ったものですが、帝京大学も参入って、さらにぉぃぉぃと思わされることしきり
こういう感じで使っていけばいいんでしょうかね
QT: https://fedibird.com/@noellabo/111153050289480189 [参照]
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪