:itomo_tayasuku_okonawareru_egetsunai_koui: 

ふたコマまんが(まんが?)

中上健次「お? やんのかコラ!?」

あたしか さんがブースト

絵画と比べて点数的にはそう多くはないものの、彫刻作品も出展されていました。先述した中堅会員氏いわく、白日会の彫刻は日展がかつて持っていたけど失われた美質と上品さを今でもよく残していると評判であるらしい。当方は日展を見に行ったことがないので、日展がかつて持っていたけど失われた美質と上品さ? 解せぬ​:ablobcatgooglymlem:​ となってしまうのでアレですが​:blobcatnervous2:​←←

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むしろ今回の関西展で個人的に気になったのは、 

写実絵画ではない具象絵画が思いのほか多かったこと。そのことは、以前、大阪の某ギャラリーで中堅会員氏から白日会自体が写実と具象と彫刻がそれぞれ1/3ずつという会員構成だとは伺っていたので知らないわけではなかったんですが、実際に写実ではない作品に接してみると、容赦なき写実軍団というわけでは決してないことが初見の者にも見て取れるのでした。とりわけこのあたりの作品(ちなみに全点撮影可でした(驚))に接すると、ぇこういう系統の表現も会員/一般問わず許されてるんや!? となることしきり。なるほどこれなら現在SUNABA GALLERYで個展「続・神集へ(カムツドヘ)」展を開催中(〜2024.6.19)の松平一民氏のような絵柄でも一般枠で入選するなぁとムリヤリ分からされる。ちなみに松平氏は同会に全く縁がないのに応募して入選したそうで、意外とフェアに選考しはるんやね。その点にも驚。

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で、今回の関西展でも写実絵画が 

会員/一般問わず並んでいましたが、そう広くない会場を見て回るうちに、写実絵画って昨今の生成AIが描いた絵(絵?)との共通性がけっこう多いんじゃないかという謎の感慨を抱いてしまう──ぃゃこれだけだと語弊がありまくりなので大急ぎで付け加えますと、良質な写実絵画に接することで、写実絵画の絵画としての独自性の大半を占める要素を生成AIによる絵もかなりの程度共有しているのではないかと直観してしまうし、その直観の根拠というのは、取り急ぎ、写実絵画も生成AI絵もモティーフに対する光の当て方がかなり似通っているという点に求められるのではないか、という話ですね。カラヴァッジョやレンブラントの絵を想起すると分かりやすいかもしれません。生成AI絵に似通っているというのは、だから単なるdisりではなく、写実絵画がいかにモティーフのリアルな現前性を描くことを指向しているとしても結局のところ絵画であるし、その「絵画である(あるいは、絵画でしかない)」ことを逆説的に透明化することで写実絵画はムーヴメントとして一定の支持を得たのではないかという身もフタもない事実が生成AI絵によって露呈してしまったのではないかと考えられるわけで。こんな形で写実絵画が相対化されてしまうのは誰も予期しえなかったでしょうね。まぁ古来よりピンチはチャンスと申します──って誰目線やねん

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少し前の話になりますが、 

2024.6.5〜11の日程であべのハルカス近鉄本店で開催されていた白日会関西展に行ってきました。1924年の創立から今年百周年を迎えた白日会( https://www.hakujitsu.com/ )、3月に国立新美術館で大規模な記念展が開催されてましたが、そこから選抜された作品が前期後期にわたって大阪に巡回してきた格好。当方、この手の公募団体展のような画壇系の展覧会には全く疎いのでアレですが、このところ当方の周囲で白日会に縁がある/あったアーティストの個展に接する機会が立て続けにあったもので、そこに折良く巡回展がやってきた形になるわけですな。

さておき白日会といいますと、画壇系の美術の動向に疎い者的にも、現会長の中山忠彦(1935〜)氏が推進してきた
写実絵画というムーヴメントが画壇の枠を越えたポピュラリティを獲得してきたことで知られています。実際、千葉県には、この写実絵画に魅せられた大コレクターのコレクションが一堂に会した美術館があるそうですから(ホキ美術館 https://www.hoki-museum.jp/ )、ひょっとしたら生半可な現代アートよりも日本・現代・美術において広い地歩を築いていると言ってしまっても、あながち揚言ではないのかもしれない。まぁ確かに写真のようなきれいな絵、画家の全精力がつぎこまれた絵という表象はキャッチーで分かりやすいですからね。

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ちらっと読んだけどヤバそうな内容、あとで読む

予言とアーカイヴ
デザインの可逆性について
久保田 晃弘 / Akihiro Kubota
https://ekrits.jp/2024/06/8229/

飲み過ぎたビールぉぃιぃ&明日も仕事なので、今日は早めに :neyoune: :oyasumi:

:sticker_dangerous_items: 

「夢の国から修羅の国に」ディズニーランドが“ガチ勢”御用達のラーメン二郎系テーマパークへと変貌か…価格高騰・システム複雑化にファンからは悲しみの声も(集英社オンライン) news.yahoo.co.jp/articles/75d1

TDR、当方は行ったことがないのでアレですが、入場料の高騰やアトラクションの事前予約が必須状態になり、あげく徹夜組まで出てきてるらしい :blobcatfearful:  そうなると確かに「“ガチ勢”御用達のラーメン二郎系テーマパークへと変貌か」と言われても仕方ないような :blobcatnervous2:  まぁでもこの手のテーマパーク自体、客単価を上げないと回らないから、どうしても搾取のラットレースになってしまいますゎな。あいつらしょせんネズミなだけに :uwa:  むしろ開園から40年近く爆速搾取モードにならずによく粘ったものです。

:oha_fediverse: 。三連休が終わって、今日からまた仕事です…… :kao_oyo:

あたしか さんがブースト

ところでかかる木下の超展開は、 

メディア/メディウムの選択と歴史的同時性において、高松次郎(1936〜98)と並行しているように思われます。高松も1980年前後からそれまでの彼の作品に見られた影や遠近法といったキーワードを擲ったかのような絵画に注力するようになり、それは藤枝晃雄(1936〜2018)といったモダニストの劇症的な反発や無理解を招きながらも継続されることになるのですが、今日の視点から見たとき、高松の絵画への回帰は「影」や「遠近法」といったキーワードによって現わされるようなイリュージョンと違った形で絵画の持つ空間性を主題にしようとしていたと見ることができる。実際、高松は70年代において《平面上の空間》というシリーズを手がけることでかかる空間性への探究に手をつけ始め、80年代以降は《形》《形-原始》シリーズによって超展開を見せていくことになるのでした。

木下と高松の関係性については、この展覧会の図録に所収されている光田ゆり女史の論考「思考の結晶──木下佳通代の写真と絵画」(赤々舎、2024)で次のように指摘されています。

やや難解な言葉づかいで、木下は絵画空間のことを語っているのだ。遠近法が描き出す三次元的なイリュージョンとは異質な、絵画にだけが持ちうる空間について語っている。みることの根本を検討してきた木下が、錯視効果で三次元の擬似空間を表す遠近法を試みるはずはない。もちろんキュビスム的なファセットの浅浮彫、触知的な空間イリュージョンも求めはしない。視覚上にのみ存在する、絵画面(ピクチャープラン)独自の、特別な「深み」について語っていたはずである。
(略)
木下はまもなくペーパーワークからカンヴァスへと移行して、色数を絞り、筆触のせめぎあいで作られる画面を探求していく。一方、高松次郎の「平面上の空間」はこの後、色面が並列し、細い色面が幅のある線でもあるような余白のない画面へと進んだ。続いて1980年から「形」シリーズを始め、高松は様々な色彩のうねる線で画面全面を埋め尽くした。両者の展開は並行してはいないが、自らの方法で絵画独自の空間を表そうという課題を、二人の作家が共有していたと考えてみたい。
高松の仕事を経由することで、私たちは木下の絵画が、「自らの方法で絵画独自の空間を表そうという課題」に突き動かされたものであること、そしてその課題に対して、描くことと拭うこととを同時進行するように描くことで、「視覚上にのみ存在する」ものを「存在」として改めて存在させることで応えようとしたことが見えてくるでしょう。それを思考の内的な論理によってドライブさせるという、その純度の高さに、さらに言うなら、そのような純度の高さによって作品を立たせることができた時代が確実にあったことを今に伝えているのではないか──そのようなことを考えさせられるのでした。

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あたしか さんがブースト

かような 

1970年代における、写真やリトグラフを用いて存在と視覚・知覚する行為との間隙を巧みに&そんなんありか〜!? という形で突いていく作品はもちろん、80年代以降亡くなるまで続けていく絵画作品がまとまった形で紹介されていたことにも注目しなければなりません。展覧会では1982年に描かれた《82-CA1》を、木下の思考をめぐる決定的な転換点としてフィーチャーしていましたが、これ以降の彼女は絵の具を雑に塗りながら雑に拭っていく、言い換えるなら絵具を塗ることと拭うことを同時進行させて描く絵画作品に終生にわたって没頭することになる。一見すると1970年代の禁欲的なと雑に括られるであろう作品とは真逆のヴィジュアルを見せることになるわけですが、しかし先述した存在と視覚・知覚との間隙を主題化するというモーメントは、ここでも変奏されています──木下はかかる絵画への回帰について「写真の使用によって、観念が先行し、表現が手段となる恐れが出てきたために、直接描くことを始めた」(「木下佳通代展」(『美術手帖』1981年2月号所収))と語っていたそうですが、「直接描くこと」に踏み込むことで、彼女の絵画への回帰は1970年代の日本現代美術における諸動向が共有していた存在と視覚・知覚の相剋という問題系を、存在に引きつけて突破していく、その端緒となったと言えるかもしれません。

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木下佳通代(1939〜94)、関西では 

神戸市にあるギャラリー島田や兵庫県立美術館が、彼女の長年のパートナーだった奥田善巳(1930〜2011)の作品と並べて展示することはときどきありましたが、今回のような大規模かつ画業全体を俯瞰する個展は管見の限り初めてでして、始まる前から注目しきりでした。具象寄りな油画を描いていた最初期から抽象画へ、そこから写真を大々的に用いたコンセプチュアリズム&ミニマリズム全開な作品に歩みを進め、さらにそこから身を翻して再び絵画へと転進していく──この展覧会では、そのそれぞれの時期の作品を多く紹介した上で、この間の彼女の、思考における連続や飛躍がある程度見えてくるように配置されているように思われ、その点においても配慮が行き届いていたと言えるでしょう。

木下における思考の連続や飛躍・断絶は、同時期のもの派・ポストもの派同様、事物の存在をめぐって展開されたとさしあたっては言えるでしょう。ただ彼女が独特だったのは、多くの美術家が取り憑かれた事物の存在をめぐる問題系に対して、
存在とそれを視覚・知覚する行為との間隙を作品の中に何層にも折りたたんでいくことで迎撃しようとしていたことにあった。1970年代に集中的に手がけられた、プライマリーな図形と描かれた図形とが二重写しになっている版画作品あたりにそれは顕著でしょう。そこでは、イデアとして仮構される形(=存在)と、実際に紙の上に描かれたものであることが強調された形(=視覚)とが同時に単一の平面上に描き込まれることで、鑑賞者は両者の同一性とギャップとを同時に受け取ることになり、それによって存在と視覚との間を触知することになる。たとえそれが視覚という行為が見せる一瞬のイリュージョンであったとしても、です。

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知られざる重要作家の全貌。「没後30年 木下佳通代」(大阪中之島美術館)レポート https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/kazuyo-kinoshita

大阪中之島美術館で開催中(〜2024.8.18、その後埼玉県立近代美術館にも巡回)の「没後30年 木下佳通代」展、当方は先日見に行きまして、その極渋さに大満足だったのですが、レポート記事が上がってるんですね。今知った(爆)。

中上健次(1946〜92)の未完の大作『異族』が講談社文芸文庫から発売され、¥3,850(税込)という強気きわまる価格で話題となっているようですが、あのとき(あのとき?)小学館文庫版を買っていた当方にスキはなかった :blobcatbook:  こちらは1998年の発売当時、¥1,200+税でした :blobcatnervous2:

x.com/t__kamizono/status/18000

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「70年代再考 版画・写真表現の波紋」展|2024.6.25〜7.20|galerie 16(京都市東山区)

DMが届きました。

企画:塩田京子
企画協力:坂上しのぶ
出展作家:高松次郎、木下佳通代、彦坂尚嘉、木村秀樹、辰野登恵子、木村浩、石原友明
という圧倒的布陣で1970年代の美術を振り返るといった趣の展覧会。坂上しのぶ女史は2012年にgalerie 16が50周年を迎えた際に行なわれたトーク──5日間連続で、各ディケイドごとに当事者を招いて振り返るというものでした──を企画し、2020年には、長らく京都で制作活動を繰り広げたジェームス・リー・バイヤース(1932〜97)についてのモノグラフィを刊行するなど、日本現代美術史について堅実な仕事を重ねており、信頼性はピカイチなので、今回も超期待。1970年代の日本現代美術について、とりわけその思考をめぐって論ずるに、版画と写真にフォーカスするのはむしろ定石ではあるのですが、そこからどのようなアクチュアリティを引き出すのか、気になるところ。

なお会期中には、その坂上女史がファシリテーターとなって二夜連続でトークが予定されており、さらには新著『70年代再考』が刊行されるとのこと。どれも超マストです。
第一夜「70年代という時代」 パネリスト:中島一平、木村秀樹、長野五郎
第二夜「現代美術における写真」 パネリスト:木村秀樹、木村浩、石原友明

おまけ。西天満の一角にあるセカンダリ専門のギャラリーに津高和一(1911〜95)の最晩年の作品と、先日逝去した舟越桂(1951〜2024)のリトグラフが展示されてました

展覧会めぐり、後場はOギャラリーeyes→YOD Editions→ギャラリー白&白3&白kuro→天野画廊→gekilin.と見て回りました [添付: 5 枚の画像]

展覧会めぐり、本日は大阪。前場はあべのハルカス近鉄本店→髙島屋大阪店と見て回りました

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