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学生さんが「これ去年ママと行ったアフタヌーンティー、どこのお店か忘れちゃったけど」と写真を見せてくれたので一目で「これは閉店しちゃった銀座のラデュレだね!」と教えて差し上げた。アフタヌーンティー鑑定の授業?

小学校低学年くらいの時、父と姉と近所を歩いていて、空き地に「⚪︎⚪︎不動産」という看板がかかっているのを見て「『不動産』って何?」と父に聞いたところ、「『不動』は動かないこと、『産』は財産のこと。反対の言葉として、『動産』、動く財産があって、持ち運べるお金とか宝石とかのこと。じゃあ動かせない財産って何だ?」とクイズを出され、見当もつかないので冗談のつもりで「おうち!」と答えたらまさかの正解で父も私もびっくりしたこと。当時、「おうち」や地面は大きくて動かせないものの代表であって、それを売り買いするなんて想像もできなかった。

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保育園のおもちゃに、木でできた球に赤や黄などのペンキを塗ったものがあったのだけど、その中に木の地肌はそのままでニスだけ塗ったものがあり、これは何色と呼んだらいいのだろう、木の色だから「木色」? いやそれでは「黄色」とかぶってしまうし、などと思っていたら他の子が何の気なしに「肌色」と呼んだので、肌色! なるほどこれは肌色と呼べばいいのか! といたく感心したこととか。
肌色という言葉は当然知っていたけれど、この言葉はこういう場合に使うのか、と新しい用例を知ることができて感動しました。
(いま「肌色」という言葉が使われなくなっていることに対して惜しむ気持ちは特にないです)

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あと、保育園で他の子が「全然」を肯定文に用いていたのに対して「『全然』は『〜ない』っていう場合にしか使えない」と主張してその場にいる全員から「そんなことはない」と否定されて負けたり、姉が「AしたりBする」という言い方をしたのに対して「『たり』は『AしたりBしたりする』という使い方をしなくてはならない」と主張して「そんなことはない」と否定されて負けたりしていたのも興味深い。
これ、誰かに「文法的にこうだ」と教えられたわけではなく、それまで読んだり聞いたりしてきた言葉の集積から自然と法則性を導き出し、それに反する用例を聞いた時に初めて「それは違うはずだ、なぜなら……」という形で法則を意識化し言語化したのよね。
だから、みんなに「そんなことはない」と言われた時に根拠が出せずに負けたのだけど。
(「全然」は本来は肯定文にも使用されていたことは知っているので、その正しさをいま云々する気はなく、ただ現代の用法から法則性を無意識に導き出していたのが面白いという話です)

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保育園で「ママ」という言葉を初めて知った日の記憶があり(我が家では最初から「お母さん」と呼んでいた)、同じ時に容姿に対するあの二文字の罵倒語二種も初めて聞いた。どうもよろしくない文脈であったと思われる。
いま思うとそれ以前に「ママ」という語を一度も聞いたことがなかったとは考えにくいが、「今日は新しくその言葉を知ったぞ」と感じていた記憶があり、とにかくその日その語を初めて認識し、意味を習得したのであろう。
子育てをしている人の、「子供が初めて⚪︎⚪︎と喋った」といったSNSへの投稿を興味深く見ていたが、考えてみたらあの頃は内側からそれを見ていたのだった。親より自分の方が興味を持っていたと思う。

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ある言葉をいつどのように知ったか、という記憶がわりとたくさんあり、たとえば「りりしい」は子供向けに再話された『ガリバー旅行記』の絵本で、「焚書」は『若草物語』で、「弔い合戦」は『モスラ』の映画の読本だった。

ほしかったコートの予約受付が行われていた8〜9月には、今年はとても冬が来る気がしなくて見送ってしまったのですが、無事冬が来たようで何よりです。

〆切地獄を抜けてちょっと時間ができたと思っていたら、来年刊行予定の単行本のスケジュールの話が三冊分ほど降ってきました。来年は何冊出るんでしょうね。

12/13に出る『紙魚の手帖』12月号に「不死者の物語」シリーズのお話が載ります。読み切り短篇なので前のお話を読んでいなくても大丈夫です。冬らしい話になりました。
tsogen.co.jp/sp/isbn/978448803

今月末に刊行される短歌アンソロジー『雪のうた』(左右社)にわたしの雪の歌も一首収録されています❄️
左右社さんの『◯◯のうた』シリーズ第三弾です。
sayusha.com/books/-/isbn978486

毛布を出し、そのあたたかさに感動する。
2マス進む。

寒い寒いと思っていたら、ずっと毛布だと思ってかけていたのは毛布ではなかったことが判明。
一回休み。

歩いていたら遭遇したかわいいヒポポタマス。

星占いの今日の運勢をたまに見ると毎回「射手座は大忙し」って書いてある気がしている。

国境なき医師団には毎月の寄付をしていて、緊急チームへの寄付も時々しているけれど、もっとパレスチナのために何かしなくてはと思って、でも個人でやり取りをするのが怖くてできない。

駅前でアムネスティ・インターナショナルのビラを配っている人がいたので受け取ったところ、サポーター募集をしているのだが今日はまだ誰も申し込んでくれないとのことだったので申し込んできました。

ちょっと疲れてるとすぐ「なんにもしたくない……」と絶望的な気持ちになるのだけど、したいことが多すぎて渋滞してるだけだし、ちょっと疲れただけで絶望的な気持ちになるのは、自分が生き物であり生き物は活動すると疲れるものだという認識が欠けており自分はあおく透き通る精神の炎によって稼働していてそのエネルギーは無限であると思い込んでいるために疲労を覚えた途端に無限のエネルギーが枯渇してしまったと誤認してしまうからで、眠くなるともう目覚めないのかと思って泣いてしまう赤子と変わらない。

ちょっと忙しくしているあいだに、Suicaを失くし買って間もないモバイルバッテリーを失くしました。

一番好きな季節は冬だったのだけど、5年ほど前のある秋の天候不順が続いたある日、いきなり真っ暗闇に呑み込まれるような鬱に襲われ、これといった理由も見当たらないまま数日後のよく晴れた日に海辺で日向ぼっこをしたことで生還した時から、冬の初めには気分の落ち込みに警戒することにしています。
たった数日でも、それを乗り越えることはほとんど不可能に思えたものでした。

11/30刊行予定の高田怜央第二詩集『ANAMNESIAC [アナムネージアック]』(paper company)にも帯文ならぬ裏表紙文を寄せています。注目!
note.com/elizabeth_remi/n/n6c4
「憶えていることと思い出すことは違って、憶えていないことでもわたしたちは思い出すことができる。思い出した瞬間に、生じる記憶。たぶん、言葉を持っているから。言葉がわたしたちの中に入ってきたとき、見たことも聞いたこともないものたちを大勢引き連れてきたから。言葉を使うたび、わたしたちは存在しない記憶を取り戻す。それでは、ふたつの言語で想起するとき、想起されるのは同じ記憶なのだろうか?」

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