あと、保育園で他の子が「全然」を肯定文に用いていたのに対して「『全然』は『〜ない』っていう場合にしか使えない」と主張してその場にいる全員から「そんなことはない」と否定されて負けたり、姉が「AしたりBする」という言い方をしたのに対して「『たり』は『AしたりBしたりする』という使い方をしなくてはならない」と主張して「そんなことはない」と否定されて負けたりしていたのも興味深い。
これ、誰かに「文法的にこうだ」と教えられたわけではなく、それまで読んだり聞いたりしてきた言葉の集積から自然と法則性を導き出し、それに反する用例を聞いた時に初めて「それは違うはずだ、なぜなら……」という形で法則を意識化し言語化したのよね。
だから、みんなに「そんなことはない」と言われた時に根拠が出せずに負けたのだけど。
(「全然」は本来は肯定文にも使用されていたことは知っているので、その正しさをいま云々する気はなく、ただ現代の用法から法則性を無意識に導き出していたのが面白いという話です)
保育園で「ママ」という言葉を初めて知った日の記憶があり(我が家では最初から「お母さん」と呼んでいた)、同じ時に容姿に対するあの二文字の罵倒語二種も初めて聞いた。どうもよろしくない文脈であったと思われる。
いま思うとそれ以前に「ママ」という語を一度も聞いたことがなかったとは考えにくいが、「今日は新しくその言葉を知ったぞ」と感じていた記憶があり、とにかくその日その語を初めて認識し、意味を習得したのであろう。
子育てをしている人の、「子供が初めて⚪︎⚪︎と喋った」といったSNSへの投稿を興味深く見ていたが、考えてみたらあの頃は内側からそれを見ていたのだった。親より自分の方が興味を持っていたと思う。
ある言葉をいつどのように知ったか、という記憶がわりとたくさんあり、たとえば「りりしい」は子供向けに再話された『ガリバー旅行記』の絵本で、「焚書」は『若草物語』で、「弔い合戦」は『モスラ』の映画の読本だった。
12/13に出る『紙魚の手帖』12月号に「不死者の物語」シリーズのお話が載ります。読み切り短篇なので前のお話を読んでいなくても大丈夫です。冬らしい話になりました。
https://www.tsogen.co.jp/sp/isbn/9784488031251
今月末に刊行される短歌アンソロジー『雪のうた』(左右社)にわたしの雪の歌も一首収録されています❄️
左右社さんの『◯◯のうた』シリーズ第三弾です。
https://sayusha.com/books/-/isbn9784865284461
11/30刊行予定の高田怜央第二詩集『ANAMNESIAC [アナムネージアック]』(paper company)にも帯文ならぬ裏表紙文を寄せています。注目!
https://note.com/elizabeth_remi/n/n6c4a20552a86
「憶えていることと思い出すことは違って、憶えていないことでもわたしたちは思い出すことができる。思い出した瞬間に、生じる記憶。たぶん、言葉を持っているから。言葉がわたしたちの中に入ってきたとき、見たことも聞いたこともないものたちを大勢引き連れてきたから。言葉を使うたび、わたしたちは存在しない記憶を取り戻す。それでは、ふたつの言語で想起するとき、想起されるのは同じ記憶なのだろうか?」
8/4『奇病庭園』刊行