Twitterでシェイクスピア研究をされているらしい学者さんのちょっと信じられないツイートが流れてきて驚いたが、この人、少し前にはエレクトリックライトオーケストラについても随分無知なことを呟いていて(ファンだった知り合いが激怒してリツイートしてきたので知ったけど)、驚いたばかりだった。
まあファンでなくても「ELOはロックの殿堂に入っているけど、このバンドの曲聴いてバンド始めようとかいう人いたのかな?」的な話されたら、「え?」ってなるよ、そりゃ。ジェフリンを舐めたらいかんでしょ、流石に。80年代後半以降にデビューしたイギリスのポップスミュージシャンでELOの影響受けてないのを探すのが難しいくらいで。だって1970年代中盤からの10年余り、最も全米TOP40にシングル送り込んだバンドっすよ。日本だと奥田民生なんかは完全にジェフリンの影響モロ受けなのがよくわかるでしょ。故にPUFFYのサウンドがELO風味になるのも当然で、まあスターマーがスタッフにいるから当たり前と言えば当たり前だけども。
取り急ぎ https://twitpane.com/ をメンテナンスモードに切り替えて凍結された旨だけ書いておいた。
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/fujita_taniguchi/22307
この記事に関連して、通俗道徳の話がツイッターで出ていたので。
通俗道徳は身分制社会の江戸時代でこそ、努力すれば家が栄える可能性を示して、人びとのやる気を引き出した面があったけれど、幕末にはその力を失っており、努力してもうまくいかない閉塞感が維新の一因にもなったと、須田努『幕末社会』にありました。
しかし、通俗道徳ではうまくいかない、という閉塞感で打破された江戸時代も、いざ明治になれば「(打破されたんだから)通俗道徳でうまくいく、うまくいかないのは自己責任」と読み替えられて、松沢先生のいう「通俗道徳のわな」により強く捕らわれることになってしまいます。
通俗道徳のわなと密接な関係があると思われるのが、助けられることへの「恥」の観念です。江戸時代半ばまでは、施しを受けることへの「恥」はなかったのに、幕末にはその観念が生まれています。と先日読んだ東島誠『〈つながり〉の精神史』にありました。
【再掲】
東京新聞長期連載『ふくしまの10年』より『見えない放射能を描く』(2020年6月30日〜7月11日/全10回)
(3)寂しさ残るグラウンド
https://www.tokyo-np.co.jp/article/39261
#なかったことにさせない #原発事故 #nucleardisaster #fukushima #journalism #イラストレーション #絵本
仕事で、確認しなくてはならず、日本への帰化が認められた件数の推移を見ていたら、二重国籍を認められず、日本国籍を失った日本人の数の方が数倍大きくて、日本という国の指導層の思考回路を疑ってしまった。
日本人が一番多いのが米国。で、日本人が米国籍をとりやすいように、二重国籍を許可すると、米国で投票したり、上院議員に「有権者」として、意見を送れる日本人の数が増える。米国は日本にとって重要な国なんだから、日本にとってプラスじゃないの?それとも国際感覚のある日本人が米国で政治力を増すと自民党政権には不都合なのか。
データが出ている法務省のウェブサイトのページのリンクはこらちら: https://www.moj.go.jp/MINJI/toukei_t_minj03.html
家族制度については、生活を共にする基礎的なユニットを作るということと、子供を産み育てるということとを分離して個別の制度にすることが望ましいのでは、と個人的には考えています。ユニットが生物的に増殖する可能性があるかどうかは切り離して考え、子育て支援は親がどうだろうと子供中心でやる。
結婚は生殖を前提としているから同性婚は認められない、という発想は、現行の結婚制度でも生殖能力を失った人(老人など)同士の結婚が認められていることからすれば、完全な論理とは思えません。生殖と家族形成は分けて考えるべきではないかと思うのです。
最近こういう現実を知った若い人が多いんだろうが、左派側が風俗産業に篭絡されているのは今に始まった話ではなく、例えば数十年前に週刊金曜日誌上を中心にして起きた「売る売らないは私が決める」論争などがその典型で、自己決定権の尊重という美名のもとに、拒否権を持てない人や選択肢を奪われている人らの不可視化に左派側も一緒になって加担してきたのだが、その延長線上に今がある。
あのときの論争の仕掛けた方にいた中心人物は歳も重ねたせいか、今は全面には出てきていないが、彼の息がかかった子分格の連中が今日も元気にネット上を闊歩している。そんな彼らは保守の立場として反差別運動などにも参加していたので、左派側が判断誤らせて
吸い寄せられていった側面もあるんだろうが、流石にそろそろそうした構造に気がついてもいいだろう。事実、女性たちはそこに気が付き始めている。なのに反差別運動のおっかなさを左派側から指摘していた人ですら、女性の権利の話になると、あっけなく転げてしまう。この国の抱えている問題の多くは、結局は我々オッサンが引き起こしているんだなと認識するよりほかない。「結局最後に残るのは女性差別」、という先人の言葉が重く伸し掛かる。
地元の知り合いの何人かが、立憲民主党周辺の人らが今回のColabo叩きに加わっているのを知って驚き落胆していて、かつて選挙協力したことをかなり悔いておられるのだが、それを言ったら、地方とはいえ党幹部による盗撮事件を目の当たりにし、その対応として党関係者の信じられない発言の数々をネット等で見せつけられたた共産党支持の末端の人らの落胆は比ではなかろうと推測するが、彼女らへの攻撃のうらに反社や風俗業界関係者の思惑があるのは、火を見るよりも明らかであるにもかかわらず、無理筋なColabo叩きに勤しんでいる人らにはそこに加担している意識が全く見えない。
ここ最近、「セックスワーク イズ ワーク」ということをやたらと言い募るリベラル風の人たちが増えたなと思っていたら、そうい人が立憲だけでなく、共産党からも出てきて、権威勾配と階級の無色透明化を図り続けてきた連中の「成果」を見せつけられているようでもあり、なんともやるせなくなる。どう考えても業界の代理人にしか思えない人を国政選挙の候補者にしようとしたり、ミソジニー全開の「マイノリティ当事者」と歩調を合わせようとしたり、磁場の狂い方が度を超し始めている。
しかし最初の同性婚合法化について話を戻すなら、個人的には戸籍制度強化としての同性婚合法化ならば、それは多様性の尊重でもなければ包括的な社会への道とはかけ離れたものであり、私は賛同しかねる。
現状において、同性婚なり事実婚のカップルは、婚姻制度下のカップルと比すると、明らかに医療・福祉を受けられる機会が消失している。それは子供も同じである。因みに医療・福祉業界は依然として患者の後見人として家族の担保を欲しがるというが、「自己責任と戸籍制度のセット組み」みたいな明治維新以降顕著になった日本独特の社会構造の歪み方が個人を縛り、社会をスポイルさせているように思えてならない
あの中国でさえ、婚姻制度、戸籍制度にとらわれないカップルの形を模索し始めている中、戸籍制度強化のための同性婚合法化にすら進めないというこの国の停滞は、没落衰退国家として実にふさわしい光景なのかもしれないが。
同性婚合法化について、岸田の発言が批判を受けている中での総理秘書官の発言。その発言を受けた岸田は「多様性を尊重し、包括的な社会を実現していくという内閣の考え方に全くそぐわない、言語道断の発言だ」と述べて更迭を決めたようだが、当該秘書官は岸田のスピーチライターでもあったが、このコメントも彼が書いたのか?と思わせるかのような浮きっぷりであり、あいも変わらず多様性だの包括的な社会などという言葉が虚しく宙に浮かんでいる。
この推測は、いや推測というより陰謀論みたいなもので聞き捨ててもらって良いんだけど、トランプの周辺にいた極右、ロシア人脈が一斉に引き上げているのは事実で、次の彼らの寄生先としてフロリダのデサンティスを狙ってるのも事実で。ただデサンティス陣営もばかではないから、ガードは低くない。そこで、彼らとしてどうやってデサンティスに近づくかと言う視点に立った場合、仲介者としてのマスクという存在が浮かび上がっている。10月下旬にマスクが突然プーチンの手先みたいなことを言い出したり、台湾問題に口出ししたのを見て以降、誰かの入れ知恵あるな、と思っていて、それが誰かなのかが気になっている
元々マスクの周辺にはQの信奉者もいるわけで、マスクの側までは結構易々と潜り込める感じはある。そう思いながらTwitterで起きているさまざまなことを見ていくと、一応の合理的な理屈は成り立つ。昔聞いたテック業界でのマスクの評価として、彼はエンジニアでなくギャンブラーだというのがあったけど(その時はマスクのことを褒めての評価だったけど)、第二世代のシリコンバレー住民に多い長期主義信奉者(リバタリアニズムを土台にして、規制のないテクノロジーが社会や文化の問題を全て解決する)特有のQアノンとの親和性の高さを、遺憾無く発揮しているように見受ける。