『勤勉で愚かな私たちは』、話題になってるけど、冷笑家やミリオタは偽装された「内心の純情をわかってほしい素朴派」だというのを思い起こさせる作品かな…。 自称狡猾の冷笑家は、「〜という純情」が二重底として用意されている。狡猾アバターの中身純情。
あと、アラサーぐらいの年下に「90年代までは3〜5年前はけっこう過去だよ。94年ごろに宮崎勤事件のことはなんか昔に感じられたよ。もちろん年齢によって多少違うんだが……」とか言ったことあるんだけど、この感覚伝えにくいんだよな。
印刷メディアとテレビメディアが中心の頃って過去が流れ去るままに消えていく速度がめちゃくちゃだった。しかしそれを聞き手の実感を喚起させて伝えるのが難しい。
その頃の記憶があると、ネットというのは時間の停滞がデフォルトで、それは敗者や過去の成功者に優しい余裕を与えたとも言えるのだが、文化の差異化ドライブはものすごく弱くなったという印象が強い。
これはネット社会になったからというよりは日本社会の衰退に由来する面が大きそうだ。
何が問題かというと、個別のビジネスと公式の秩序、その単位と相互衝突を回避するコミュニティの掟が全面化し、「これとこれの好きなことってまとまるよね」といった気軽なグループ形成とエンパワメントができなくなっていることだと思う。
任意のグループ形成に対して対抗して〜というのも起きなくなっていく。そうなると、文化をめぐるカテゴリやセグメントは近過去の継続になりやすいし、分派活動が減ってしまう。分派・独立するエコノミー自体が失調しやすくなっている。
この澱みのなかで、既存のセグメントや慣習の「空気を読んで」「規範に従う」か、「特異なこだわりを持つ個体として振る舞う」かの二択を強いられる。二択自体が強制されている。
後者の選択のリスクに誰でも気づくので、水面下・裏・友人とのトークなどで行われる。つまり表に言葉になって現れにくくなる。多くが闇の中に埋もれる。
現在の文化カテゴリーの何割かは「80-90年代のレガシー」で、その呪縛ごとそのままになっているものも多いと思う。保坂派も蓮實派シネフィルも、「更新する契機やリテラシーごと絶えたトライブ」に見える。
いろんな隣接エリアを「これ同じようなニーズだし買ってる奴らも同じ集団だろ、名前つけてフィーチャーしたろ」というノリでをまとめてガイドする商売(=雑誌)がもう無いか機能してないので、分野をまたがる包括視点や枠組みが全然生まれないし共有されにくい情勢がいまいろんなところで顕著になっている。個々のマーケットの円滑さ、成功しか求められてない状況がある。
裏を返せば、前世紀は包括的視点がそれが商売になるかぎりで存在していたが、それがなくなったとたん更新されなくなったんだろうし、そういうのがいたるところにあるんだろう。
こういう見方になるのも、前世紀の文化秩序をぼやっと覚えている側の感慨であって、今は「ネットのコミュニティがあるかぎりでエリアや包括性が認定される」「それ以外は単に点であり、個人のこだわりとしてしかカウントされない」が剥き出しになった秩序から認識がスタートしている人がアラサー以下だと大多数になるだろうから、包括的な語り口を再発明する手間がグンと上がるんだろうな。
そういう切り口が商売になった時代の秩序が逆に異様に思われる日も近い。
あまり書き物ができてない。