暴力とも子の新作、普通に非正規労働の「正社員から責任をなすりつけられる」のがびびるやつだった。これは大学だと、事務×非常勤後から関係が似てそう。
フラストレーションためる→発散のサイクルがドカ食い望月さんとだいたい一緒なので、労働を描く漫画の現在って感じ。
https://zerosumonline.com/detail/vrobasan
ロックリーを叩いてる連中ってこういう記事をどういう顔して読むんだろ。https://president.jp/articles/-/47318?page=1
それなーとなるやつ。
“繰り返すがアサクリ問題は、いつも薄着な金髪碧眼爆乳美少女の忍びが、日本社会で差別を受けることなく溶け込んで過ごし、黒人の弥助の協力を得つつ、親の仇である第六天魔・信長に復讐を果たし、その途上、エラ骨美容整形済みホスト顔の日本人武将と恋に落ちるストーリーにすれば起こらなかった。”
私が現在考えたいのは「草の根型の自生的秩序によるプロパガンダ/扇動・宣伝」の方なのだが…と思いつつも、国家による監視と工作の局面としてグレーバーの記事を面白く読んだ。
この記事で出てくる友達の「活動家・映像作家」は、前世紀末までの日本に評価基準が整備されてないエリアだ。
若手の俊英研究者が集まってそうだし、かなり良さげな・・・
廣田大地・中野芳彦・五味田泰・山口孝行・森田俊吾・中山慎太郎『抒情の変容 フランス近現代詩の展望』(幻戯書房、2024.5)
大した論文ではなかったが、プロパガンダをめぐる古典的な主要文献の目録として一読するといいようなものだった。けっこう邦訳も多いとわかる。
「「プロパガンダ論」再考」(2023)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kohokenkyu/27/0/27_4/_article/-char/ja/
10年代は、キャンプ(ゆるキャン)、サウナ(サウナ道)、飯、温泉、旅などいろんな「カルチャー」参照&紹介漫画は生まれたのだが、前世紀末までの都市型カルチャーとは雰囲気が違っている。それは疲れを癒すからとか田舎に行くからだという点のみならず、映画・音楽・ファッションの参照が伴う「上昇志向と業界参入のオーラ」の有無で分かれる。
他方で、都市型カルチャーとセンスエッジが持っていた覇権は、そのままジェンダー&セクシュアリティ批評言説への感度にそっくり引き継がれている。そしてその裏返しとしてもろもろの業界のセクシズム体制、性加害側面への批判的検討が一気に進む過程にある。
かつての都市型カルチャーセンスとジェンダー&セクシュアリティ批評言説で共通するのは、一定の上昇志向と美的なものを含むエンカレッジ要素などだ。温泉やサウナ、キャンプにはそれらが無いので、かつての「カルチャー」と連続的に見えない、という印象が起きているんだろうと思われる。
だが、「カルチャーと漫画」として」考えるなら、上昇志向やエンカレッジと、必ずしもそうではないが別に現状追認ってわけでもない、という多元的な評価軸で全部総覧した方がいいんだろう、となる。
都市型カルチャーは、「文化の先端性」と言い換えれて、先端幻想とその秩序が変動したことを考えるといい。グラビアモデルよりはファッションモデル、さらには俳優、さらには映画祭で受賞が上位にあるという序列自体は滅んでない。マンガ内部でそれらのモチーフが取り込まれたことは、マンガ自体が文化の上昇運動をトレースしていたし、読者層にとっても階級移動のドライブと結びついていたからだ、と整理できそう
で、ここで考えるといいのは、スラダンはスポーツマンガなのにファッション的先端性と交差して「バスケかっこいい」を生み出したことで、スポールはグローバル競合に直接晒されるわけだ(幻想の範囲で世界戦をやってたのが70−80年代漫画だった)。00年代以降はワールドカップや五輪、今なら大谷翔平の活躍が「文化ならざる先端性」のモデル。スポーツ漫画がカルチャーなのか非カルチャーなのか、わりとぶれるのはここにありそう。『ジャイアントキリング』や『アオアシ』には階級への視線も卓越性もあるが、カルチャーに対して武器があるかというと怪しい。でもその分広く読まれる力もありそう。
異世界おじさんがSEGAカルチャーセンス、ハイスコアガールがアーケードゲームカルチャーのセンスを参照・紹介しているわけで、じゃあこれも都市型カルチャーなのかという疑問も浮かぶ。こうなると、前世紀末の「カルチャー」の狭さを批判的に検討するフェイズが必要だと思うのだが、そういう議論も存在していない。
他方で、「アニメで、ダンジョン飯という作品を知りました。この漫画面白いですね」といった声が今では20代ぐらいから山ほど出たりするのだが、えっ九井諒子ってメジャーでは? つかわりと「作家」認定だよね? 町田洋とかに比べてもはるかに知られているはずだが…と、かつての漫画読み秩序からすると愕然とするような落差を感じる機会が増えた。「知られている話題作」という枠組みはもう無いようなところがある。
00年代ぐらいに作家主義枠とメジャー枠のそれぞれの輪郭が変わって、その頃にかつてなら作家認定されなかった島本和彦、藤田和日郎、冨樫義博、荒木飛呂彦、三浦建太郎、内藤泰弘などが加わった気配があるのだが(従来より少年誌モデルが前面に出たことを意味する)、その変容は良い面もあるのだが、現在の「単にオタクファンダムで勝利してる書き手」と区別が曖昧になる状況の先触れのようでもあった。
最近ずっと「都市型カルチャーセンスを武器にしていた漫画とその作家を認定する秩序」の衰退について人と話している。具体的には大友克洋、ニューウェーブ系、90年代までの作家群(望月峯太郎、高河ゆん、CLAMP、岩館真理子、いくえみ綾、楠本まき、安達哲、士郎正宗、沙村広明)の「後」を連続的に位置付ける言説やクライテリア整備が追いついていないとか、消失しているという気配がある。
どうもそれらは、雑誌メディアを背景に成り立っていた洋楽・映画・ファッションなどの文化参照が、メディアごと覇権を失ってしまったこと、漫画雑誌が暗黙にマスメディアをエミュレートしてテレビドラマで成功するビジネスモデルだったがそれが翳りを見せていることなどが連動しているんじゃないか、というふうに合意しつつある。
音楽はグローバル競合にさらされているので多元性を見せつつ、先端性のシーンがまだ機能しているが、映画の場合は欧州と米国で分裂するので対応する動きもトロくなってきているのではないかとか、付帯する論点が多い。
怖いが読ませるツリーだった。
“日本だけの話なのかよくわからないけど、発達傾向があり親も超放任タイプだったので小学生中学年くらいから、女子がつくるギャングエイジに全然入れなくて、孤立ロードを突き進んでいた私としては、世間一般の女性はあまりにも細やかに機微を察知しすぎていると感じるが、それはそれに必死で合わせてきた人の努力を否定することにもなるなと感じるし、結局合わせないから組織でうまくやれてないわけでもあるので、日本社会ってコワ。
「女は大変だなー」と素朴に男性に言われると、ええ、あなたも女性に生まれたならばこの空気読みデッドレースの中をひた走るという選択肢しかなかったでしょうし、そんなのんびりしたことを言えるのは男性ならではですね、とは思う。
(…)
日本の女性集団はお互いに求める水準が高いからこそ、ケアしあったりできてるし、それを空気読みデッドレースと感じる時点で、日本女性をやる才能に恵まれてないという話なのだろう。”
https://x.com/ban_no_san/status/1812901275757125655?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
Okamaもさりげになろうコミカライズ職人化してるけど、漫画が圧倒的うまいなー。
(他にも、『くまみこ』の吉元ますめ、『精霊使い』の岡崎武士など、少し勢いのなくなった作家はなろうコミカライズ作家になるケースが相次いでいるので、消えつつある田丸浩史もこの枠で復活することがありうる情勢になってきてる)
あまり書き物ができてない。