最近ずっと「都市型カルチャーセンスを武器にしていた漫画とその作家を認定する秩序」の衰退について人と話している。具体的には大友克洋、ニューウェーブ系、90年代までの作家群(望月峯太郎、高河ゆん、CLAMP、岩館真理子、いくえみ綾、楠本まき、安達哲、士郎正宗、沙村広明)の「後」を連続的に位置付ける言説やクライテリア整備が追いついていないとか、消失しているという気配がある。
どうもそれらは、雑誌メディアを背景に成り立っていた洋楽・映画・ファッションなどの文化参照が、メディアごと覇権を失ってしまったこと、漫画雑誌が暗黙にマスメディアをエミュレートしてテレビドラマで成功するビジネスモデルだったがそれが翳りを見せていることなどが連動しているんじゃないか、というふうに合意しつつある。
音楽はグローバル競合にさらされているので多元性を見せつつ、先端性のシーンがまだ機能しているが、映画の場合は欧州と米国で分裂するので対応する動きもトロくなってきているのではないかとか、付帯する論点が多い。
都市型カルチャーは、「文化の先端性」と言い換えれて、先端幻想とその秩序が変動したことを考えるといい。グラビアモデルよりはファッションモデル、さらには俳優、さらには映画祭で受賞が上位にあるという序列自体は滅んでない。マンガ内部でそれらのモチーフが取り込まれたことは、マンガ自体が文化の上昇運動をトレースしていたし、読者層にとっても階級移動のドライブと結びついていたからだ、と整理できそう
で、ここで考えるといいのは、スラダンはスポーツマンガなのにファッション的先端性と交差して「バスケかっこいい」を生み出したことで、スポールはグローバル競合に直接晒されるわけだ(幻想の範囲で世界戦をやってたのが70−80年代漫画だった)。00年代以降はワールドカップや五輪、今なら大谷翔平の活躍が「文化ならざる先端性」のモデル。スポーツ漫画がカルチャーなのか非カルチャーなのか、わりとぶれるのはここにありそう。『ジャイアントキリング』や『アオアシ』には階級への視線も卓越性もあるが、カルチャーに対して武器があるかというと怪しい。でもその分広く読まれる力もありそう。
10年代は、キャンプ(ゆるキャン)、サウナ(サウナ道)、飯、温泉、旅などいろんな「カルチャー」参照&紹介漫画は生まれたのだが、前世紀末までの都市型カルチャーとは雰囲気が違っている。それは疲れを癒すからとか田舎に行くからだという点のみならず、映画・音楽・ファッションの参照が伴う「上昇志向と業界参入のオーラ」の有無で分かれる。
他方で、都市型カルチャーとセンスエッジが持っていた覇権は、そのままジェンダー&セクシュアリティ批評言説への感度にそっくり引き継がれている。そしてその裏返しとしてもろもろの業界のセクシズム体制、性加害側面への批判的検討が一気に進む過程にある。
かつての都市型カルチャーセンスとジェンダー&セクシュアリティ批評言説で共通するのは、一定の上昇志向と美的なものを含むエンカレッジ要素などだ。温泉やサウナ、キャンプにはそれらが無いので、かつての「カルチャー」と連続的に見えない、という印象が起きているんだろうと思われる。
だが、「カルチャーと漫画」として」考えるなら、上昇志向やエンカレッジと、必ずしもそうではないが別に現状追認ってわけでもない、という多元的な評価軸で全部総覧した方がいいんだろう、となる。
他方、文化庁やマスメディアが語る日本マンガ通史って、「文化の先端性とグローバル競合」のモメントをごまかすような調整でナショナルイマジネーションにまとめるような気配があるように思う。ここがおそらく生理的拒絶の根拠なんじゃないか。
という話題を×15 ぐらいやってるのだが、まとまらんので、これ本にするしかねえのかねえという感じになってる。